人であり神である贖い主
イエス・キリストがこの世に来られたのは、人間救済のためであった。人間の贖(あがな)いのためであった。私たちを罪の奴隷から解放するためであった。私たちを律法の奴隷から解放するためであった。そのためイエス・キリストは、この地上に完全なる人となって生まれてくる必要があった。
「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは、律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです」(ガラテヤ4:4、5)
いけにえが完全なる神であれば、これは神の自作自演のようなもので、律法の下にある者を贖い出すいけにえとはなり得ない。いけにえは、律法の下にある人間が、イエス・キリストを告発して、結果的に神へのいけにえとしなければ意味がないことになる。
しかしイエス・キリストは、神でなければならない。全人類の、それも一人一人を罪の結果から贖い、人間を買い戻す問題は非常に大きく、これに相応する代価は、汚れた動物や人間では到底できず、純粋に罪のない神の御子以外に存在し得ない。
こういう条件を満たすのは、繰り返すが“神”“神の御子”であり、完全なる人間のみでは不完全である。完全なるいけにえは、神の備えられたいけにえのみである。
「ご承知のように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです」(Ⅰペテロ1:18~19)
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