自分を愛せない者は
最近新聞やTVを賑わしているニュースに、近親の悲惨な事件がある。原因はさまざまなようであるが、よく観察してみると、愛の学習の仕方が偏っていたり、いびつな愛によって育てられたりしていることが多いことに気付く。
両親や親族は、それを愛と思っている場合が多いが、子どもはそう受け取っていない。押しつけのお節介としか受け取っていない場合が多い。また別の過ちでは、何でも子どもの好きなことをかなえてやるのが愛と勘違いし、結果は、何でもかなえてくれないと逆ギレするような子どもに育ったりする例も多いようだ。
愛をもって子どもを育てるのに、“まず愛を持つ”というのは必須条件であるが、愛の与え方、育て方が正しくないとき、“過度の愛は子どもを損なう”のことわざ通りになってしまう。
自分がまず生まれて愛を与えられるのは、普通の場合母親であろう。母親から正しい愛をたっぷりと与えられることで、成長して自我が形成され、自分自身を客観的に第三者として見ることができるようになったときに、自己嫌悪をも含めて、自分自身を正しく愛することができるようになる。
自分自身を愛することのできない者は、他人を愛することができない、とは言えない。自分自身を愛せないが、他人を愛するということもあるかもしれない。しかし、こういう愛は恐らくいびつであり、根底の脆弱(ぜいじゃく)な愛にならざるを得ないと思う。
鏡は自己を反映する。交際相手に自分が投影される。自分自身に対する愛がいびつな者にとっては、相手の反応もいずれ同じいびつなものとなって返ってくる。人間の愛はこれが限界である。
しかし、神様は私たち人間に、完全な生まれ育ちをした者などいないことを十分承知の上で、イエス・キリストを通して私たちを救いの道へと導いてくれた。価値なき者を承知の上で愛してくれた。私たちも不完全な者ではあるが、イエス・キリストの導きで隣人を愛することができる。
「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう」(マタイの福音書5:46)
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