お願いの祈りの必要
神様は、私たちの必要を私たちが認識する以上に、私たちが認識する以前からご存じである。私たちがお願いする祈りも、とうの昔にご存じである。私たちは、お祈りでお願いする必要があるのだろうか。なぜ、お祈りしてお願いするのだろうか。
神様は、信者に対して時々懲らしめを与えられる。これは、罰ではなくて、私たちが広い意味で神様から離れているとき、神様を蔑(ないがし)ろにした生き方をしているとき、神様が正しい道に引き戻そうとして私たちに課される御業なのだと思う。
知らず知らずのうちに、中心が神様より自分に移っていたり、金や権威主義にとりつかれていたり、広い意味の偶像崇拝に傾いていたり、神様を中心に置いているようでも、知らず知らずのうちに形骸化していたり、罪を犯し、謝罪することに慣れっこになっていたり、挙げれば枚挙にいとまがないほど、神様から離れていく悪習慣は多い。
そして、これらは知らず知らずのうちに、そっと私たちの心の内に巣くってしまう。こういう深みに嵌(は)まったとき、私たちが自分で改めようとしても、心の底から悔い改めるのはなかなか難しい。一応悔い改めても、何か心の底からではない悔い改め方であることが多いので、また同じ過ちを犯しがちである。
こんな時に、神様の試練のような懲らしめが必要になるのだと思う。
全てご存じの神様が、私たちの知らぬ間に問題を解決し、祈る必要をなくしてしまわないのは、つまり、お祈りしてお願いしなくてはならないのは、神様の一種の懲らしめ、消極的な懲らしめと言ってよいと思う。
「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます」(マタイの福音書21:22)
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