切羽詰まったときに考えること
時に、今行っている治療に関して不安が湧き起こってきて、悠長に日記など書く気になれないときがある。日記で扱っているテーマは、大体において平安を取り戻したときのテーマで、本当に落ち込んでいるときには、恐らくこういうテーマについて書く気にもならないだろうと思う。だから病院で、切羽詰まった気持ちになっているときは、日記も書いていないし記録も残っていない。後日、平安を取り戻したときに書いたもののみである。
切羽詰まったときに、何を考え、何を頼りとしていたのか、死に直結する病が牙を剥き出して襲ってくるとき、どう戦ったのか思い出してみると、
①私は、常に神は、善意の方であることを疑わなかった。
②私は、冷静に考えて、本来滅ぼされる当然の立場であることをも同時に強く覚えた。
いろいろな聖書の箇所から、御言葉を与えられ、それにすがってきたけれども、上記①②に関連する御言葉が多いと思う。そして、ちょっと希望の兆し(病の回復)が見えてくると、①の方に傾き、悪くなると②の方に傾いてくるようである。
「イエスは悲しみもだえ始められた。...この杯をわたしから...」(マタイの福音書26:37、39)
「...一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか」(同26:40)
「弟子たちはみな、イエスを見捨てて、...」(同26:56)
「...イエスをむち打ってから、十字架に...」(同27:26)
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てに...」(同27:46)
「イエスは、苦しみもだえて、...汗が血のしずくのように...」(ルカの福音書22:44)
「...父よ。わが霊を御手にゆだねます」(同23:46)
「...こんな罪人の私をあわれんでください」(同18:13)
「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ記1:21)
「罪を赦し、...きよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:9)
「信仰による祈りは、病む人を回復させます」(ヤコブ5:15)
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