神を呪う人は
ヨブ記の中で、ヨブが悪性の腫物で苦しんでいるときに、彼の妻がヨブに「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい」とヨブに進言している。こういった気持ちになることはよく分かる。苦難に遭ったときにこんなことになるなら、神様など知らなかった方が良かったとか、罪のことなど深く考えずに世を渡り、適当に無責任でいられる方が良かったとか、過去に思ったことがある。
しかし私は今、普通に考えても、世俗的に損得勘定をはじいてみても、ヨブの妻の進言は、採算がとれないと思う。世俗的なそろばん勘定でも、妻の進言に従うことは、今までの人生が無駄で無意味であったことを認めることとなり、これは大きな損失である。
次いで、神を呪って死ぬとき、心に何の平安があろうか。苦しみを一身に受けて死なねばならない。信仰を持たない人たちでも、このくらいのことは当然考えるであろう。そして、ヨブにとっては、何か分からないが、続けて信仰を持つべきだと考えるであろう。世俗的に考えて、それが得策であると思うに至るだろう。
「もし、神がご自分だけに心を留め、…すべての肉なるものは共に息絶え、人はちりに帰る」(ヨブ記34:14、15)
私たちの存在は、初めから神によった存在であり、私たちが存在し始めたのでなく、神が私たちを存在させたのが、私たちの原点であることを忘れてはならない。
「神が悪を行うなど、…絶対にそういうことはない」(ヨブ記34:10)
神は、善意のお方であるから、私たちに理解できないことがあったからといって、神を恨んだりするのは誤っている。
「神は、…人に、それぞれ自分の道を見つけるようにされる」(ヨブ記34:11)
私たちに理解できぬ咎(とが)があっても、人間の理解力を越えた神様は、必ず私たちを神様の目から見て、公平に扱ってくださる。
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