見ずして信じるから信仰である
大分前のことになるが、私が時々行く居酒屋があった。そこは兄弟・夫婦で働いており、午前中から晩9時ごろまで、皆非常によく働く人たちであった。弟は足が不自由であった。重いビール瓶や酒瓶を、入り口から調理場まで運ぶことを長年続けたからだと言っていた。恐らく、利き腕の方で無意識のうちに運んでいたため、知らず知らずのうちに体に歪みが生じてきたのだろうと思う。私は事情を聞くまでは、彼が生まれつきか、事故によるものであるとばかり思っていた。
しかし、私はこれを聞いたとき、生まれつきでない生活習慣病なら、必ず癒やされると確信した。なぜか強く感じた。そして、彼にその治し方を教えた。私が膝を痛めたときに治した方法、つまり歩き方によって治す方法であった。彼は私のような医者でもない者の言うことを信じ、日夜実行した。時々実行している、と笑顔で言っていた。
3カ月くらいたったとき、ちょっと効いてきたような気がすると言い、それからも真面目に続けた。そして、1年2カ月たったとき、驚くなかれ、全く彼の足が治ってしまった。正常な人と全く同じ歩き方をしている彼を見て、むしろ私の方が驚いてしまった。というのは、私もそうしょっちゅう、その店を訪れている訳ではなかったからである。
またある時、妻が膝が痛かったのでこのやり方を教えたが、あまり効果はなかった。と言うより、2日ほどしか続けなかったからである。
たまにしか訪れない所の人が信じ、毎日会っている人が信じないとは面白いものである。人が信じるということは(信仰の場合)、全てを見たから、奇跡を見たからというのではなく、見ないから起こることであると思った。信仰は、見ずして信じるから信仰である。見て信じるのは信じるとはいわず、知識である。
「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです」(マルコ6:4)
言っておくが、私の膝の治し方も、自分の創造でなく、他の専門家の方々の治療の寄せ集めである。
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