人を最高の創造物とされた訳
昨日、悦三から電話があった。義理の弟の結婚式に出るために、NYから成田空港に着いたとの知らせであった。自分の子が自立してくれているのは、本当にうれしく、神様に感謝している。結婚して、自分で働いて生活している上での来日であるから、立派なものであると思う。私にはとてもそこまでできない。
ただただ、神様に感謝でいっぱいである。これ以上のことは望まないというように見えるかもしれないが、実際はそうではない。1つ満たされれば、また次の欲望や期待が出てくるという具合で、今は、実は職業の内容について、満足しきれない思いがある。というのは、昼過ぎから働いて、夜中ごろまでというのは、食事時間とか睡眠時間とかに、健康に良くないところがあると考えるからである。
1つ満たされれば、また次へと欲求はとどまるところを知らない。満たされたことに関して感謝はするのだが、また次の欲求が出てくるので、感謝は幾分相殺され、あせてくる。
とどまることのない欲求、研究、好奇心、思考は、しかし神様が人間に与えてくれた。そして良しとされた能力の1つである。創世記3:3、6、7を読むと、人間はその能力を与えられていることがよく分かる。実際にこの能力があるからこそ、私たちの信仰も長続きするのである。こういう能力がないとき、信仰はすぐにあせたものになり、形式的になり、ひいては神様を自分の意思で選び、従っていくというようにはならないだろうと思う。
神様は最高級の生き物に、生き方の根本として神様を選ばせるのをよしとされた。それ故、人間を外・内とも、神に似るように造られた。最高の創造物である必要があった。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」(創世記1:26)
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