小学校5、6年生の時である。H君という友達と一緒に、学校から家に向かう道をブラブラと帰途についていた。今でも覚えているが、こうもり傘を引きずりながら、何かしら話しつつ歩いていた。
前方に、自転車に乗った青年が見え、近づいてきた。その青年は一風変わった服装をしているように覚えているが、定かではない。よく覚えているのは、その自転車である。普通自転車のハンドルは、やや後傾しているのであるが、その自転車のハンドルは直角に突っ立っており、そのために、自転車に乗っている青年の格好が何となく滑稽であった。
その上、1回ペダルを踏むごとにギーコギーコとみすぼらしい音がするのである。私はあまりのおかしさに、つい笑ってしまった。するとその青年が私に向かって「何がおかしいのだ」と文句をつけてきた。私はとっさに「友達と話していたから」とうそをついた。でもとっさの場合、そんなに落ち着いて話せなかった。“Hが・・・”というような言い方になった。
結果的には2人に向かって何か怒りの声を放ち、立ち去ってくれたが、私は友達に対して裏切行為をした思いでいっぱいであった。彼は宗教家の神殿のような大きな家に住んでいて、考え方はしっかりと真っ直ぐで、寛大で皆の信望もあつかった。私は小学生でありながら、彼のまぶしいような性格に比べ、何と卑怯なのだと自己嫌悪に陥ったものである。
私はイエス・キリストの教えに出会うまでは、こういった自己嫌悪なる経験を幾つか持っており、それをずっと引きずっていた。そして、そういう自己否定、どうにも解決できない負の感情を、無意識のうちに心の奥にただ押し込んでいた。
「主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う』と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた」(ルカの福音書22:61)
イエスは私たちを振り向いて見つめられた。私たちの、自分さえ良ければよいという性質を明るみに出して処理してくださった。
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