神様は愛される必要があるのか
神様は自己充足のできるお方である。誰の助けをも必要とせず、全ての必要を持っておられる。神様は人間によって愛される必要があるのだろうか。人間のように、神様と比べものにならぬくらい下位にある者に愛されて、うれしいのだろうか。
神様は造り主である。私たちも自分で作った物、例えば焼き物などを作ったりすると、それを大事にする気持ちはよく分かる。しかし、愛するとまではいかない。私たちが飼っているペットや動物はどうであろうか。十数年、共に生きたペットなどは、生命があり、私たちが作ったのではないけれども、私たちの多くは、飼っている犬や猫をわが子のように愛する。
神様のように生き物を造ることができるお方にしか分からないが、生き物を造るということは、たとえそれが神様よりも劣った生き物であっても、愛する対象となるのかもしれない。また、この下位の生き物が尾を振って、私たちになつくと私たちはうれしいように、私たちが神様を愛し、神様の栄光をたたえることも、神様にとっては喜ばしいことなのであろう。
ちょうど赤ん坊が私たちを慕うのを、私たちが目を細めて喜ぶように、神様も私たちが慕うのを喜ばれるのであろう。
神様が私たちを愛してくださっている一番の証拠は、イエス・キリストを世に送ってくださったことである。私たちにとって、創造主なる神様を、あまりにも哲学的に、科学的に驚異を深く探るのは不信仰かもしれない。神様と私たちの間に、贖(あがな)い主であるイエス・キリストのいない信仰は、不信仰であろう。もしくは、イエス・キリストはいても、形式的な存在になっているとしたら、それも不信仰であろう。
「父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません」(マタイの福音書11:27)
「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マタイの福音書22:37)
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