ささいなる不快感
最近、長らく会っていない知人に1年余りぶりに会った。私の病気を聞いて非常に驚いていたが、会話の中で、私の顔色が悪いと面と向かって言うのである。私はこれを聞いてガッカリした。自分の実際の顔色についてではなく、この知人の配慮のなさについてである。普通、病人に向かっては、お世辞でも悪く言わず良く言う。嘘(うそ)であっても、それは良い励ましとなるからである。
これらは小さい出来事であるが、私にとって気分の良いものではない。しかし私にとっては、これらはもうその場限りの不快感である。それ以上のものではない。こんなことは数え挙げれば、枚挙にいとまがないほどあるが、煮詰めて考え腹立たしく思うことではない。特に私はこのごろ、こういうつまらぬことはサラリと流すようになっている。そういう習慣がついたのかもしれない。
イエス・キリストと比べるのはおこがましいが、人間として地上に来られたイエス・キリストは、神としての能力をほとんど使わずに、人間界にある、ありとあらゆる苦しみに遭われ、父なる神様の愛を信じて従順に徹した。このイエス・キリストがおられる限り、我を通すことに喜びは感じない。
「穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ」(箴言14:30)
「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす」(箴言17:22)
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