いじめの問題、小・中学生の自殺の問題、先生の殺人、親が子を殺す、または子が親を殺す、社会的要職の人の殺人や背任等々、最近はとどまるところを知らないかのごとくに、冷酷で道徳など存在しないかのような事件が多い。これらはいつの時代にもあった事件であるが、今日ほど氾濫しなかったのではないか。
私は1つには、原始社会にしろ、近代社会にしろ、人々の心の中にしっかりと根づいた考え(信じるところ)の基準というものが失せたときに、ありとあらゆる非道徳的な犯罪が氾濫するのだと思う。道徳や倫理が基準として育っていないのだから、支離滅裂になるのも当然といえば当然である。
基準がないものだから、当然の成り行きとして、人々は自己中心的に基準を作り上げる。その結果、実に多用な人生観や価値観の人が誕生することになる。それ自体は悪いことではないと思うが、人間は社会的に生きる必要があるので、一定の基準、人間それぞれに共通し、認め合い、合意のできる基準も必要となってくる。
これは法のような外的束縛もあれば、倫理道徳のような内的な束縛に訴えるものもあるだろう。とにかく、好む好まざるとにかかわらず、こういうスタンダードが不可欠である。
今日では自己中心の基準が強くなり過ぎ、社会的な基準を凌駕(りょうが)している。何事も片方が強くなり過ぎてはバランスが悪い。
「そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。・・・しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます」(マタイ24:10、13)
こういう時代だからこそ、人々はスタンダードを求めている。特に心のスタンダードを。伝道には最も良い環境であり、神様が備えてくださっているのである。
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