タイトルからして刺激的である。宗教の目的、そして精神科の目的。これらに共通するのは、苦しんでいたり悩んでいたりする人間を「救い」へと導くことである。それを本当にこの2つの分野は可能にするのか、という根源的な問いを発していると言えよう。
しかも著者は、共に当代随一の宗教学者(島田裕巳)と精神科医(和田秀樹)である。2人の歯に衣着せぬ対談が収められた新書は、厳密には「神学書」とは言い切れないが、神学的刺激を与えてくれるという点で、一読の価値はある。
第1章で、日本の現状を2人の視点から概説している。この時はあまり感じなかったのだが、読み通してからあらためて感じるのは、2人とも幼少期からかなり頭が良かったんだなということ、そして人一倍悩んで来られたのだなということ。それぞれがどうして自分の専門分野と出会えたかが、透けて見える内容になっている。
第2章はかなり刺激的。おそらく宗教学者がこのような闊達(かったつ)な物言いをしているのを初めて聞いた気がする。それは、私があまりに宗教家(宗教学者ではない)を身近に感じ過ぎていたからかもしれない。
「宗教家も医者も、相手(信徒および患者)から『偉い人』と思われた方がいい」という発言である。これは一見するとあまりに横暴で、某新興宗教の教祖のようになれ、と言っているように聞こえる。しかしそうではなくて、相手から尊敬され、その言葉の重みを相手に感じてもらえるようになって初めて治療や改善の道が開かれるという実践的な状況を語っているのである。
キリスト教は、妙な異端的な少数派は除くとして、おしなべて「いい人」が集まっている。心優しく、相手のことを慮(おもんぱか)り、そして「清貧の思想」に一応は服することを厭(いと)わない人種・・・。これが牧師であり、クリスチャンの姿(だと本人は思っているの)である。
そして、自分が相手からどう見えるか、相手をつまずかせていないか、教会に来て不便をかけていないか、細心の注意を払っている(と本人は思っている)。特にキリストの十字架で罪赦(ゆる)されるということを伝える福音主義的牧師は「自分がそれ(救い)をするのではない」と、ことさら自分を低くして、傲慢(ごうまん)や不遜な状態に陥らないよう人一倍厳しくセルフチェックするものだ。
しかし、精神科の和田氏からの指摘によると、良い精神科医と宗教の教祖は似ていなければならない、ということになる。それは共によい「ご託宣」をする機能を担っているからである。
精神科医の口から「ご託宣」というおよそ科学からかけ離れた言葉が飛び出してきたことに驚かされるのだが、言いたいことは、どれだけ相手を納得させられる言葉を持っているか、どれだけ「私は偉い人からこんな言葉を頂いた」と目の前の相手(信者や患者)に思わせられるかにかかっていますよ、という実践的な判断を彼がしているということであろう。
精神科医の診断の実情と、宗教家のカウンセリングとの対比がその後は描かれているが、そこではっきりするのは、わずか5分程度の精神科医の診断も、宗教家のカウンセリングも、共に日本的な「スピリチュアル」的欲求を満たすことができるなら、人は治癒を体験することもあるし、また息苦しさから解放されることもあるというのだ。そこに必要なのは、神道的な「あいまいさ」であるという。
わずか5分の精神科医診断で本当に相手のことが分かるのか、と島田氏が問うと、和田氏は「分からない」とはっきり返答している。しかし、そのわずかな時間で、よく分からないながらも指示とも命令ともとれないような言葉掛けをすることで、実は相手が納得することがあるという。
それを和田氏は「僕がついているから大丈夫機能」と砕けた表現をしている。島田氏は和田氏に同意し、この機能を宗教家は本能的に身に付け、そして実践しているということを指摘している。
ここで少し視点を変えて、大局的に見てみよう。そもそもキリスト教、仏教、イスラム教の世界3大宗教が存在しているのはなぜか。おのおのの立場をニュートラルに考えるのなら、どれだけその時代、その土地に住む人々のニーズに応え、そして苦しさや悩みから解放を与えることができるか、ということになるだろう。
殊にキリスト教の場合、特にこの傾向を強く示してきたのが「福音主義者」である。聖書を通して生き方が変わる。キリストを通してあなたの罪が清められる。癒やしの業が祈りを通して起こる。これらは全て、この知らせを聞く人々にとって「耳よりの情報」であり、まさに「福音(良き知らせ)」である。
しかし、同じように苦しみや悩みからの解放が、精神科医とのカウンセリングで与えられるとしたらどうだろうか。苦しんでいる本人にとっては、その違いはどうでもいいだろう。自分の苦しみから救ってくれるなら、それが宗教だろうと精神科医だろうと関係はないはずだ。
しかしその与え手は、自分のやり方、信じているものでなければ困るという切迫した思いを抱きがちになる。それに凝り固まってしまうなら、本書のような対談集は生み出されなくなってしまう。
ところが本書では、その一見相対立するような分野の2人(宗教家と精神科医)が実は対談の中で同じような思いを抱いていたことを知り、その表現や解釈の違いこそあれ、同じ日本の現代的な問題に向き合おうとしていたのだ、ということを知る構成になっている。
そういう意味で、自分の信じているもの、聖書の教え、教会の在り方、これらをいったん相対化し、客観視し、その上で自らが選んだ世界観(キリスト教、プロテスタントまたはカトリック)をあらためてつかみ直すのには、最適な1冊と言えよう。
昨今はやりの言葉で言うなら、宗教家と精神科医が対談することで、お互いが相手に抱いていた警戒感を解き、ポリティカル・コレクトレス的表現をしなくても分かり合えるのだ、ということである。そのような可能性と不思議にシンクロし合うその専門領域の重なり具合が、読む者たちに爽快感を与えることになる。
第3章以降、「教育」「創価学会」「経済」など、日本にとって大切であるか、なじみであるか、日常の風景に溶け込んでしまっている分野を具体的に抽出し、本書タイトルとなっている「現代の病を救えるのか?」という問いに答えようとしている。
本書でキリスト教の深みが分かることはない。しかし、非キリスト世界からキリスト者や牧師、教会がどう見られているかを知る1つの視点にはなり得ると思う。自分たちでは気付かなかったような良さや魅力が実はあふれていたのだということを示してくれる1冊となることは間違いない。心の中にキリスト者として何か閉塞感を抱えている方がおられたなら、本書を読むことで新しい視点、解釈の視点が与えられるかもしれない。
気になったのは、第6章の「現代の病への処方箋」という項目がどうしても復古主義的で権威主義的にしか読めないことである。つまりこの2人、実はかなりのストレスとジレンマを抱えながら生きておられるのだな、と思わされた。それなら1度、教会の門を「探求者」としてくぐってみてはいかがだろうか(笑)? それが本書のタイトルに対する最も分かりやすい答えになるはずである。
そんな自信すら牧師や宗教家に与えてくれる一面も併せ持つ、多機能な対談集である。
島田裕巳・和田秀樹著『宗教と精神科は現代の病を救えるのか?』(2017年3月、ベスト新書)
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