今日は中国系アメリカ人のジェフ・チューという方が書いた「祖母の素晴らしき教え」というエッセイを翻訳してみます。
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私の祖母は、不安というものを見せたことがない人です。彼女も人間ですから、不安を感じたことはあったはずです。まだ若かったとき、戦争で難民となって逃避していたとき、不安があったはずです。1960年代に米国に移民となって渡ったとき、文化も言葉も分からなかったとき、不安があったはずです。でも、私は彼女の不安を見たことがありません。
「祈るのですよ」。祖母のさえずるような声が今も聞こえます。それは要求であり、アドバイスであり、祖母的な注意が1つになったようなものでした。17年前に亡くなった祖母は、この言葉を何千回となく私に言ったと思います。私が学校のことでストレスをため込んでいたときとか、お父さんに腹を立てていたときとか、大切なことだけでなく、ばかげたことや些細(ささい)なことにむしゃくしゃしていたときなど、祖母は「祈るのですよ」と言ってくれました。
祖母は祈れば欲しいものが何でも与えられると考える空想家ではありませんでした。彼女の人生は多くの祈りにもかかわらず、試練がありました。貧しさや戦争や子どもの死などを経験しています。
祖母は、祈りを通して神様に近づくのだということ、そして神様と共にいるならば、恐れるものはないということを知っていたのです。祈りがあるということは、不安を克服できるということを意味していました。なぜなら、人知を超えた平安が与えられることを確信していたからです。そして、彼女が教えてくれたことは、それさえあれば十分だということです。
「主よ。良い時も悪い時も、喜びの日も悲しみの日も、どうか祈ることを思い出させてください」
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