以前、中国で文化大革命が興亡した後、全土で家の教会が爆発的に生まれ、何千万人というクリスチャンが生まれていきました。その頃、聖書が圧倒的に足りなくて、外国のクリスチャンたちが官憲の目を盗んで中国に聖書を持ち込んでいた時代がありました。
1つの村に聖書が1冊あるかないかという時代でしたから、聖書を手にした人々は涙を流すくらい喜んでいました。それまでは、聖書の数ページを写経して回し読みをするといった状態であったようです。また、聖書を持っている人のうわさを聞くと、何十キロも遠いところまで聖書を見させてもらうためにはるばる訪ねて行く人も珍しくなかったようです。
ところが、今では中国は、世界でも最も聖書の印刷出版が多い国となり、外国にまで輸出しているというではありませんか。キリスト教への弾圧が無くなり、誰もが安価に聖書を手に入れることができるようになったという証拠でしょう。こうなってくると良いようでもあり、かえってマイナスなこともあるようです。
聖書が手に入らなかった時代には、聖書に対する飢え渇きがみなぎっていたのが、いつでも手に入る時代になると、それほど聖書に対する飢餓感がなくなってきて、信仰が生ぬるくなってくるのです。迫害があり、官憲の取り調べがあり、投獄があるときには、人々の信仰は燃えていたのが、時代が変わり、迫害がなくなり、誰もが自由に聖書を読み、教会に出入りできるようになると、皮肉なことに信仰が生ぬるくなってしまうのです。
翻って私たち日本では、信教の自由が保証されていて、信仰の故に迫害されるということはまずなくなっています。教会に行くことも自由であり、聖書を手に入れることも楽にできます。実は、こういう時代が最も信仰が試されるときだということを知っておきたいと思います。
使徒パウロが「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています」(ピリピ4:12)と言われています。迫害があろうがなかろうが、「時が良くても悪くても」、同じように静かに信仰に燃えて生きるという道を究めていきたいものです。
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