「私は生きていていいのか」
「生きるべきか死ぬべきか」・・・決断がつかず、生涯迷っている人は意外に多いと、私は思います。うつうつ、悶々(もんもん)を払いきれないのです。
でもクリスマスは、それらいっさいの黒雲を完全に吹き飛ばす大事件が、自分にもとうとう起こるという祭りなのです。
見つめられているあなた
それはかわいらしく愛らしく、人なつっこいことこの上ないイエス様の明るい瞳に、じっと見つめられていること。それに気付くことから始まります。
すると、生命肯定の一大エネルギーが自分に点火され、勢い良く、時に山火事のように燃え広がる、まさに「太陽の子」にさせられていく。楽しくてうれしくて仕方ない毎日が開始されるのです。
それはまさに素晴らしい「快感物質」の注入を受け、それがもう脳内と体内で増え続けるばかりのようなのです。聖霊は限りなく降ってくる。例えれば、保育園のゼロ歳児の無力な赤ちゃんが、日ごとに成長し、大人顔負けの年長の子になっていくようなものです。これは人間の大きな「進化」あるいは「突然変異」と言っても差し支えないほどなのです。
死にたい人は救いが近い
毎日死にたいけど死ねない、と追いつめられてやっと生きている人。そういう人(この世界に何ものにも身を寄せるものがない人)のすぐそばに、ほら、イエス様のほがらかな笑みが近づいてきています。それにもしも気付いたなら、あなたは初めて人間として生き始める。
それまでの何十年、実際1日だって生きてはこなかった。「黄泉(よみ)の中」を死人のように生きて?きたにすぎません。でも、新たな1日は千日にも匹敵する充実を与えられることになるでしょう。
新たな家系の開始
あなたはこの喜びをもって先祖代々の人々を包み感謝し、この驚くべき生命から新たに生まれ出る家の「先祖」となるのです。今後永く続く家系にとって、旧約聖書のアブラハムのような存在となっていくのです。
さらにはこの危うい日本の精神的霊的祖先となっていく。そうしてこの国は、かつてと違う精神的キリスト教的大国となっていく。精神的奇跡が「使徒行伝」時代のように、次々起こってくるでしょう。そうなれば、日本もついに夢も希望もあふれ、世界をリードできるようになることでしょう。
誰も責めてはいませんよ
きれいなお花が咲いています。かわいい幼な子がこちらを向いて笑いかけます。小鳥も松の木も生き生き。・・・この世界はあなたを無条件で歓迎している。あなたは生きていいのです!
「この役立たず」などと責められているように感じるのはあなたの妄想。それは世の悪の力がそうさせているのです。
そういう黒雲や霧をすっかり取り払ってくれるものこそ、世界のどん底で誕生しながら笑いかける幼子キリストです。私ほど暗く寂しい人がいるなんて、神様さえ驚くだろう、とひそかに思っている人。あなたこそ、イエス様は大好き、最高に目をかけてくれるでしょう。これまで受けてきた全ての意地悪やおびやかしは、一目散に逃げていくばかりです。
私事で恐縮ですが、若くして逝った父の無念を晴らすことを生涯第一の目標としてきた私も、死の力を持つ悪魔をやっとねじ伏せた感激を味わっている昨今です。そしてこの勝利は私だけでなく、誰でも手にすることができる。時に血みどろの闘いも必要でしょうが。友を失い、家族や健康を失う。でもやがてそれらを上回る「生老病死」に堂々打ち勝てるのです。
やがて安心が訪れる。そんなに必死にならず、そんなに真面目にならず、楽々と人生を楽しみ、神様を楽しむ道が開かれていくのです。
騒音に悲しみあり
学生時代マックス・ピカートの『騒音とアトム化の世界』を面白く読みました。今も世界は騒音で満ちている、と感じる人は多いでしょう。でもよく見れば、そんなことはありません。どの人のどんな動きにも(恐縮な表現ですみませんが)、神様から離れてさ迷いつつ「救い」を求めざるを得ない、尊く、悲しく、また面白いドラマが読み取れます。ベツレヘムの宿屋をいっぱいにしていた騒がしい客も、みんな悩みや葛藤を抱えて懸命だったことでしょう。
私は、たまに1日中ラジオ・テレビに接していても、泣き笑いで、退屈とは無縁。もう説教で苦労しなくなりました。
この民族的奴隷解放。新たな民族の歴史の始めです。同志よ、集まろうではありませんか!
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