日本基督教団根津教会(東京都文京区)は、東京の下町散策として人気が高い谷根千(やねせん、谷中・根津・千駄木の頭文字)にあり、赤いとんがり屋根が印象的な美しい木造平屋建て切妻造りの教会だ。米国の町の小さな教会のような雰囲気を持った根津教会は、1919年に本郷福音教会として建設され、2001年には文化庁登録有形文化財にも指定されている。その根津教会で24日、90人が集まり、クリスマスイブ特別賛美礼拝が行われた。
落語家・立川談志の町として知られる根津の教会らしく、礼拝前には談志一門の立川志遊師匠の小噺が行われた。「落ち」で大きな笑いに包まれた瞬間、急に暗闇に包まれ、賛美歌「きよしこの夜」が静かに流れ出した。その中を今年、新しく同教会に入会した3人がろうそくを手に現れ、先ほどとは一転し、厳かな中でキャンドルライト礼拝が始まった。
この一風変わった礼拝の始まりを演出したのは、根津教会牧師の鍋谷憲一氏。経歴も、伝道活動の内容も「変わっている」ことで有名な鍋谷牧師。今回もその期待に応えることとなった。
鍋谷氏は、三井物産株式会社の元エリート商社マン。京都大学法学部を卒業後、1970年に入社して以来、当時の花形だった鉄鋼輸出部門に所属し、世界を相手に活躍していた。そんな鍋谷氏がイエス・キリストを受け入れたのは、赴任先のジャカルタで先に受洗した奥さんの影響だ。
帰国後、1995年4月に根津教会で受洗。4年後には、前任の牧師が突然引退を表明したことをきっかけに、残りの人生を教会のためにささげる決心をし、東京神学大学3年に編入した。2003年12月に正教師の資格を得て、根津教会の牧師に就任した。
異色ともいえるこの経歴は当時、全国紙にも取り上げられ、大きな話題となった。その後自身が書いた『もしキリストがサラリーマンだったら』(阪急コミュニケーションズ)は、クリスチャン以外の間でも評判となった。
鍋谷氏の献身のエピソードも実にユニークだ。根津教会で後継者問題が出た頃は、日本はバブルもはじけ、どの会社も人員整理に躍起になっていた時代。特に大企業では、1970年代に大量に入社した団塊世代を、人件費削減の対象として少しでも早く自主的に退職させようと、あの手この手がとられていた。鍋谷氏の勤めていた三井物産も例外ではなく、毎月のように早期退職者に対する優遇特別措置を宣伝する案内が配られていたという。
当初早期退職に興味がなかった鍋谷氏ではあったが、ある時ふとそれを手に取って、「もし80歳まで生きると仮定して」会社を定年まで勤め上げた場合と、優遇制度を使って退職し、牧師になる場合の生涯収入を比較してみた。その時に心に浮かんだのは、「大きく金額は減収になるが、これなら牧師になっても暮らしてはいけるじゃないか」ということであった。つまり、「私が牧師になろうとしたのは、転職という感覚にすぎず、決して神様に仕えるという気持ちではなかった」のだ。
「根津教会で後任牧師になる」という思いを東京神学大学でも堂々と説明したので、面接試験の中でも某教授から「それは召命と言えない」と物議を醸したこともあった。しかし、教会内に住み込みを始め、三鷹のキャンパスまで通いながら学びを進めている最中に、一信徒では思いも及ばないさまざまな難しい問題が矢継ぎ早に持ち込まれるようになり、その一つ一つに対応する中で、「これらは、召命に支えられなければやっていけないことだ」と、「あの時期にこそ神様からの召命を確信した」という。
台東区根津の住宅街で、関東大震災も東京大空襲もくぐり抜けてきた根津教会は、そのしゃれた外観により「谷根千散策」でも人気スポットとなっている。しかし、長い年月を経てきた分、就任当時は問題も多かった。現在では、普段の礼拝に、求道者も加えて45人くらいは出席しているが、鍋谷氏が同教会に来た頃の礼拝出席者は15人ほどだったという。「21人の出席者があったとき、ある役員が『毎週これだと本当にうれしい』と涙を流しながらあいさつしたのを覚えている」と当時を振り返った。
そういった状況の中で牧師となった鍋谷氏が力を入れたのは、伝道。「最初からいろいろな人に教会の敷居をまたいでほしいという考えでいるので、会堂で外に向けたイベントをやっている」と話す。イベントは、寄席、講談、バザー、コンサートと多彩だ。こういった工夫の結果、多くの人を教会に招くことになった。ただ、教会周辺の人たちが教会に訪れることは、本当に少ないという。
住宅街に溶け込むようにして建つ教会だが、そのすぐ近くには、1900年前に創祀(そうし)されたといわれる根津神社があり、教会の周りは全部神社の「氏子」だ。鍋谷氏も「地域になじんでいるのは、教会の建物だけ。ここの場所の宗教的な中心的建物は根津神社」だという。
町内会の議題も全部根津神社のことであり、近所に住む人たちを教会に誘うのは至極困難なことなのだ。「教会で落語を始めたのも、近所のお年寄りが落語につられて来るのではないかという思いから。それでも来るのは、毎年1人か2人という感じ。そのくらい神社に遠慮している」と、根津教会が地域で難しい立場にあることを語った。
それでも今年、根津教会では2人の転入会者と1人の受洗者が与えられた。この日の礼拝では、洗礼式も行われ、出席者は二重の喜びを分かち合った。また、礼拝前には結婚式も行われた。
神の大きな憐れみと祝福の中で行われたクリスマスイブ礼拝だが、今年は教会にとっても、鍋谷牧師にとっても試練の年だった。今年4月、鍋谷氏に喉頭がんが見つかったのだ。さらに肺がんも見つかり、半年に及ぶ闘病生活を送ってきた。その時の記録は「私の癌闘病記」に詳しいが、闘病中、礼拝で説教を休んだのはたった2回。その時は、神学生が鍋谷氏の書いた原稿を代読したという。
現在、抗がん剤による副作用の影響などはみられるが、「私たちの命は神様によって『創られ、生かされ、召され、復活させられる』のですから、『今現在』を元気に楽しく暮らせるはずではないでしょうか」と、「私の癌闘病記」の中で述べているように、「楽しそう」と「元気そう」が鍋谷氏からあふれ出ている。
世界を相手に仕事をしてきた商社マン時代に比べ、根津教会の牧師としての日々は世界が小さくなったのでは、と鍋谷氏に尋ねると、「普段の信徒との付き合い、牧会でのつながりが、世界を相手にした商社マンと何の違いがあるのか。大きい・小さいということで言えば、少しも小さくなっていない」とし、「神の国の大きさを日本の国土に縮めてしまえば、世界中の人々がすぐ隣にいる隣人になる」と話した。
「全てどんな人間であっても、礼拝に来てくださる方は、神様が呼んでくださる方」と話す鍋谷氏は、クリスマスイブ礼拝の出席者を前に、この日の礼拝に与えられた聖書の御言葉、ルカによる福音書3章21、22節を通して、「あなたは私の愛する子」と題したメッセージを取り次いだ。この中で鍋谷氏は、クリスチャンには4つの誕生日があることを伝えた。
1回目は、この世に生まれた日。2回目は、キリスト教信仰を与えられ、洗礼を受ける日。3回目は、私たちがこの世で死ぬ日。最後の4回目は、終末の時、最後の審判を受け、神の国に行き、永遠の命が与えられる日だ。最後の審判で神の国に行った魂は、「死なない体」が与えられ、神と共に歩むことができる。一方、地獄に落ちた魂は「死ねない体」が与えられ、地獄の苦しみに耐えられず、死にたいと思っても死ぬことは決してできない。鍋谷氏は、永遠の命を与えられたクリスチャンがいかに幸せであるかを語った。
鍋谷氏は、「まことの神イエスが、私たち罪人のために自ら十字架にかかり、私たちの身代わりになってくださった。ここにこそ、神の愛がある。その結果、私たちは永遠の命、死なない命が与えられる」と話し、「感謝をしながら、残りの人生を歩んでいただきたい」と結んだ。
この日の礼拝は、「賛美礼拝」の名前の通り、数多くの賛美がささげられた。感謝祈祷の後には、根津教会恒例のヘンデルの「ハレルヤコーラス」を全員で合唱し、礼拝堂に「ハレルヤ」が響き渡った。あふれるばかりの神の祝福の中、鍋谷氏の祝祷をもって、心温まるクリスマスイブ礼拝は終了した。