遠藤周作(1923~96)と言えば、その作品を読んだという人も多いかと思います。カトリックの信者として多くの作品を世に著して、ノーベル文学賞の候補にも上がったほどの有名な作家であります。私自身も幾つかの作品を興味深く読みました。その中でもやはり一番強い印象を与えられたのが、『沈黙』という作品です。最近、この作品が映画化されたということを聞き、大変うれしく思っています。
日本に宣教のために来ていたポルトガル人の宣教師のことを通して、日本人のキリスト教観を明らかにしようとした渾身(こんしん)の作品であったと思います。氏自身が12歳の時に母親の勧めでカトリックの洗礼を受けたということがベースとなって、日本人の自分と西洋のキリスト教とがうまく溶け合わないというジレンマを感じながら大人になっていったようです。それで、なんとか日本人にもなじめるキリスト教理解というものがないものだろうか、という模索が氏の多くの作品の根底にあったようです。
その模索の大きな転換点は、イギリスの神学者であるジョン・ヒックという人の多元的キリスト教という主張でありました。それは、全ての宗教の目指すところは同じであるという土台に立って、過去のキリスト教の優越感を修正し、他宗教を尊重し、キリスト教排他主義を失くしていこうとする趣旨の思想であります。
このテーマは非常に大きなものなので、このコラムで取り扱うには無理がありますから、深入りはしません。ただ、遠藤周作が目指そうとしていた点に共感できる部分と、少し注意する必要があるのではないかという両面があると感じていることだけを指摘したいと思います。
共感できる点は、キリストを非常に身近に引き寄せてくれたという点であります。私たちの弱さを徹底的に理解して受け入れてくれる、同伴者なるキリストという理解を深めてくれました。
しかし、キリストのもう1つのご性質、つまり、超越的存在としてのキリスト理解がいささか希薄であったということが問題点であるように感じます。聖書のキリストは内住のキリストであると同時に、超越のキリスト、絶対的他者としてのキリストの両面が啓示されています。そして、その両面を理解することが、私たちの信仰にとって不可欠なことではないかと思います。
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