私の神学的思想の形成に少なからず影響を与えてくれた神学者に北森嘉蔵(かぞう)という世界的に有名な方がいらっしゃいます。ご存じの方も多いと思います。東京神学大学で長い間教鞭を取られ、『神の痛みの神学』という書物で有名になられました。
この方の書かれているものは、非常に印象的なイメージを用いたものが多く、日本的であることにこだわりつつ、世界にも通用するような説得力を持っています。師の神学は「痛みの神学」とも呼ばれています。
北森師の言われる「痛み」とは、単なる身体的な痛みではなくて、心の痛み、嘆き、であります。これは親が子に対して抱くような愛から生まれる痛み、特に母親が子に対して持つ心配と愛情の入り混じった苦しみに例えられています。これが、神が私たち人間に対して抱いている思いである、という視点から、1つの神学のジャンルを構築されました。
北森師はエレミヤ書の31章20節に特に心惹(ひ)かれました。「エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。それとも、喜びの子なのだろうか。わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない」。ここに神の心が最も鮮明に表されていると見ました。
心が「わななく」ほどに、痛み苦しんでいる神の姿。エレミヤという預言者は神のことを最も深く理解した人であると、受け止めておられます。人間の罪の姿を見れば、神はとうていこれを赦(ゆる)すことはできないのが当然である。しかし、そのような人間を見捨てることができず、かといってそのまま受け入れることもできず、その間で葛藤し、痛み苦しんでいる神の姿がここに見事に表現されていると見たのです。
少し原書から引用してみます。神とは「徹底的に包み給う神」である、「包むべからざるものを包む」神、「我々のこの破れたる現実を神があくまでも包み給う」ということが救いであると説明します。神に包まれて、私たちの傷が癒やされ、解決される。キリストの十字架とは、この神の痛みの表れである、と説明しています。
神の愛とは、この痛みの表れであると見た北森師の神学に学ぶところが多いと思っています。
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