かつて私は柳宋悦(やなぎ・むねよし、1889~1961)について研究したことがありました。日本人にしてキリスト教に深い関心があり、しかも日本仏教に理解が深く、西洋思想と東洋思想を融合するような思想を展開していたところが、非常に魅力的でありました。
なんとか、キリスト教を日本人にも理解できるものにできないものか、という課題にいつも直面していた当時、柳宗悦が突破口を与えてくれるのではないかという期待もあったと思います。柳は日本の民芸の父と呼ばれ、ごく名もない職人の作った日常的な生活に必要な道具や食器などの中に深い美を見いだし、それを広く世間に紹介し、美に対する目を開いてくれた人であります。
美を追求しないところに本当の美があると教えてくれました。生活のために必要である、役に立っているから美しいのだ、と主張し、美を美のために追求する美は真の美ではない、と論破しました。後者はエリートのための美であり、前者は一般凡夫のための美である、と。
名もない農夫が日常の使用のために作った井戸茶碗の中に味わい深い美を見いだし、それが今は国宝として重宝がられています。これも柳の功績によるところでしょう。
柳はこのような芸術観を宗教と結びつけました。仏教的他力本願という思想と、キリスト教的神の恵みを同一視しました。彼は信仰とは徹底的に他力に信頼することだと力説しました。凡夫が救われるのは仏の慈悲によるのであり、神の一方的な恵みによるのである、と洞察しました。
もちろん、仏教の中にも自力本願の宗派もあり、他力も自力もそれぞれに真理があることは疑いようがありません。キリスト教の場合は、自力自体が神の恵みによって与えられているものだという理解があります。
ただし、柳の宗教観を研究していくうちに、キリストの十字架に対する理解が欠如していることに気が付きました。いずれにしても、日本人として神の恵みに近づいていった人であることは間違いないでしょう。
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