日本基督教学会第64回学術大会2日目にはシンポジウムが行われ、長崎外国語大学教授の小西哲郎氏が「被爆地ナガサキから」、広島女学院大学准教授の澤村雅史氏が「被爆地ヒロシマから」とのテーマで発題した。
なぜ「怒りの広島、祈りの長崎」なのか? 永井隆の浦上燔祭(はんさい)説
小西氏はまず、長崎の反核運動に及ぼしたキリスト教の影響について説明した。反核運動の姿勢を表した言葉として「怒りの広島、祈りの長崎」という言葉がよく語られる。広島ではストレートな怒りと抗議の姿勢として表されるのに対し、長崎では平和への“祈り”として表される、という姿勢の違いがある。
広島の原爆文学の代表としては「父を返せ」「母を返せ」という詩で知られる峠三吉の『原爆詩集』がよく知られており、平和記念公園にも石碑が建てられており、そこには被爆者の怒り、恨みがストレートに表現されている(峠三吉は戦後共産党に入党するが、戦中プロテスタント教会で洗礼を受けたクリスチャンでもあったという)。一方長崎では、カトリック浦上教会の熱心な信者だった永井隆の『長崎の鐘』がよく知られている。
永井は原爆体験記の中で「原爆が長崎の浦上に投下されたのは神の摂理」「浦上が選ばれて燔祭(はんさい)に備えられたことを神様に感謝する」と書いている。燔祭とは旧約のユダヤ教の儀式としても行われたように、聖書では「焼き尽くす献げ物」と訳されている。永井は、原爆で死んだ人は神様にささげられた小羊であり、その犠牲をささげたことで神は世界に平和をもたらしてくださったと考えた。これは、長崎大学名誉教授の高橋眞司氏によって「浦上燔祭説」と名付けられた。
ここに現れているのは、核兵器使用への怒りではなく、究極的には神がなさったことだからと、人間の責任を追及しない姿勢だ。『長崎の鐘』はベストセラーになり、藤山一郎によって歌になり、映画化もされた。永井は被爆者の代表として原子野の聖人としてたたえられ、物理学者の湯川秀樹と共に総理大臣賞を受賞、長崎市の名誉市民第1号にもなった。今でも8月9日は平和祈願ミサが浦上天主堂で行われ、毎年メディアはそれを報道し、「祈りの長崎」として報じ続けている。
「原爆は長崎に落ちとらん、浦上に落ちた」浦上への差別と原爆
長崎には「原爆は長崎に落ちとらん、浦上に落ちた」という言葉があるように、浦上と長崎は異なると捉えられている。長崎市の中心と浦上は距離的に離れ、文化的にも歴史的にも異なる。浦上山里村は江戸時代以降、潜伏キリシタンの里だった。潜伏キリシタン信仰を守っていた浦上の住人はカトリック教会に復帰したが、仏教徒だった旧長崎市内中心の人々は「クロス(十字架)」を信じる者として「クロ」「クロシュウ」と呼び差別していた。
有名な「長崎くんち」も、家がキリシタンではないことを示すための「宗門改め」という性質を持っていた。さらに浦上の周辺には被差別部落が配置され、監視や弾圧の尖兵の役割を担わされていた。(関連記事:分断差別の歴史を超えて和解へ 『生き抜け、その日のために 長崎の被差別部落とキリシタン』)
原爆は浦上の中心に落ち、一帯は壊滅、カトリック信徒1万2千人のうち8500人が亡くなったが、金比羅山に遮られ、旧市街地の被害は軽微だった。そこから「原爆は長崎ではなく浦上に落ちた」と言われるゆえんとなった。そこが、平地で市内が全て壊滅した広島との大きな違いだった。
長崎にはカトリックが多く、県人口比で4パーセント、浦上小教区だけで7千人(日本最大)、浦上地区の19・9パーセントがカトリック信者とされるが、「われわれを浦上の人間と一緒にするな」という差別意識は現在でも残っており、「原爆にやられたとはいえ市内の3分の2が助かったのは諏訪神社のおかげ」と語られてきた。
差別されていた浦上地区に落ちたことで、従来のカトリック差別に被爆者差別が加わり助長されるということになった。
小西氏は『長崎の鐘』の中から、永井が浦上教会信徒の山田市太郎から掛けられた言葉を引用した。「誰に会うてもこうゆうですたい。原子爆弾は天罰。殺された者は悪者、生き残った者は良い者だと。では私の家内は悪者でしたか?」
“原爆は天罰だ”という言葉は、原爆で家族を失い、肉体的、経済的に苦しんでいた被爆者に追い打ちをかけるような言葉となり、信徒の中には動揺し、教会を去る人もいた。永井が“原爆は神の恵み”だと語ったのは、“原爆天罰説”を否定し、動揺する信徒を慰め励ます意図が込められていたといえる、と小西氏は指摘した。
浦上の歴史と永井隆
(関連記事:隠れキリシタン・浦上四番崩れ・原爆投下 浦上天主堂の壁にキリスト教信仰400年の歴史を投影 6000人が見守る)
永井の思想は、原爆被災を浦上のキリシタン迫害・受難の延長線上に位置付けるものでもあった。永井は、浦上の受難の3つの歴史を挙げている。1つは1629(寛永6)年の幕府によるキリシタン狩りであり、2つ目は江戸時代末期から明治時代初期にかけて起きた浦上四番崩れ(3400人の村人が検挙、日本各地に配流され、約650人が獄死したとされる)、そして3回目が1945年の原爆である。永井は、浦上はたびたび試練に遭ったが、信仰を持って立ち上がり、復興してきたとして「神様は浦上を愛するが故にこのような試練を与えた。天罰ではない。浦上こそ神に特別に愛された場所である」と語った。差別を逆手にとった永井の底流にある思想を、小西氏は「浦上イズム」と指摘した。
浦上燔祭説の問題点
最後に小西氏は、浦上燔祭説の問題点を指摘した。永井の意図がなんであれ、原爆は神の摂理だと語ったことは、米国の原爆投下の正当化に一役買うことになった。原爆投下は当初から米国でも批判があったが、投下したトルーマンから現在のオバマに至るまで正当化され続け、謝罪はなされていない。
冷戦時代の米ソ核軍拡競争の中、核兵器使用の正当化は米国には不可欠だった中で、当の米国でさえ言えなかった「原爆は神の摂理だった」という言説を長崎の被爆者自身が進んで語り、それを米国は利用してきた。
占領下のプレスコードで検閲が敷かれ、原爆体験記の出版など絶対に許可されない中、『長崎の鐘』は例外的にGHQの援助を受けて出版され、ベストセラーになった。これは“宗教を国家が利用した構造”といえる。
また小西氏は、「爆死者は神にささげられた神の小羊である」という理解は、聖書解釈の伝統からは本来あり得ないとも指摘した。神がイスラエルを敵の手に渡し破壊するのは、イスラエルの民が犯した罪の結果だというのが、旧約の申命記的歴史観といえる。浦上燔祭説は聖書の言葉を使い、一見キリスト教的に見えるが、伝統的解釈とはいえない。そして永井の言説は戦後、「核エネルギーの平和利用」という動きの中でも利用され続けてきた。
現在の長崎でも薄れつつある浦上燔祭説
しかし1981年にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が来日し、2月に広島で平和アピールとして「戦争は人間のしわざである」「戦争は人間の命を奪う死そのものである」「戦争は不可避なものでも必然でもない」「過去を振り返ることは未来への責任を担うことだ」と語った。これは永井の燔祭説を否定しているともいえ、ここから流れが変わっていった。
(関連記事:オバマ大統領のスピーチをどう聞いたか 18歳で被爆し反核運動に身をささげる宗藤尚三牧師に聞く)
小西氏は、現在でも長崎では、永井は平和を祈った人として象徴的に語られているが、浦上燔祭説はなくなりつつあるといえる、と締めくくった。(続きはこちら>>)