被爆地HIROSHIMAと軍都廣島
続いて、広島女学院大学准教授の澤村雅史氏は「被爆地ヒロシマから」として発題した。
日本で中原中也賞を受賞した米国人の詩人アーサー・ビナード氏の「『原子爆弾』と呼ぶのか『ピカドン』と呼ぶのかが、語る者の立ち位置を示している。『原子爆弾』と言うとき、落とす者の視点に立っているが、落とされた側は『ピカドン』と呼ぶ」という言葉を引用した。
「“ピカドン”は広島の生活者が自らの焼かれた皮膚とずたずたに切られたDNAをもとに、日本語を鋭く豊かに響かせて生きた言語感覚で本質をつかんだのです」(アーサー・ビナード)
そして被爆地HIROSHIMAは、また「軍都廣島」でもあり(関連記事:被爆71年:「2016ピースウォーク 軍都広島を歩く」に参加して)、日清戦争時代には大本営が移され、宇品港は朝鮮・中国進出の窓口であり、捕虜収容所、第二総軍司令部などが置かれた日本の“加害性の象徴”でもあった。それを忘れてはならないと、澤村氏は指摘した。
原爆投下の背景
原爆投下直後の1945年8月11日、米国キリスト教協議会事務局長からトルーマン大統領に「多くのクリスチャンが原爆投下に心をかき乱されている」という抗議があったが、トルーマンはこれに対し「私ほど原爆使用について悩んだ者はいないが、日本人が真珠湾を奇襲したこと、さらに(米国人)捕虜の殺害に憤りを覚えている。日本人に分かると思われる言葉は爆撃だけだ。けだものはけだものらしく扱われねばならない。残念なことだが、それが真実である」と返信した。
これは、原爆投下が日本の早期降伏をもたらし、日米双方の戦死者が大きく増えることに歯止めをかけたという「早期終結論」として現在も語られる。しかし原爆投下は同時に、人体実験でもあった。戦後、広島の比治山にはABCC(現在の放射線影響研究所)が設立され、集めたデータをもとに調査研究が行われ続けてきたが、被爆者治療は後手にまわっていた。
核兵器の「正当性」と核の平和利用
澤村氏は、広島もまた戦後、米国と日本の核政策に利用されてきたと指摘する。広島平和資料館は1955年に建設されたが、設置条例の事業目的は1994年まで「原子力の平和利用に関する資料の収集、展示」だった。1956年には「原子力平和利用博覧会」が、資料館の被爆資料を全て館外に移して開催され、原子炉の実物大模型が展示された。
1953年にアイゼンハワー大統領は「アトムズ・フォー・ピース」という言葉を語り「広島に原発を」目指す法案が提出された。当時のイェーツ下院議員は「米国民は平和の民だ。原子力の力は悪魔ではなく善意であることを、破壊ではなく建設であることを示そう。被爆地ヒロシマこそ平和利用の地にふさわしい」と語った。
米原子力委員会のトーマス・マレー委員は「日本に原子力発電所をつくることは劇的でキリスト教的な行為であり、こうすることでわれわれは広島、長崎の惨劇の記憶を乗り越えることができるだろう」と語った。当時の浜井信三市長も「(原爆)犠牲者への慰霊にもなる」と発言していた。
澤村氏は、これは「われわれはキリストの隣人愛によって広島に原発をつくってあげて、彼らの痛みに理由を与えてあげ、癒やしてあげよう」という「善意」によって提案されたといえ、長崎における永井の「浦上燔祭説」と同じような機能を担った言説であると指摘した。
しかし1954年の第五福竜丸事件により、日本でも原水爆禁止運動が高まり、潮流が変わっていった。その後、運動は政治的な動きに巻き込まれ、分裂・停滞する歴史をたどっていった。
オバマ大統領は、プラハ演説で核軍縮を語ったが、一方でより実用的な小型核兵器を開発するための政策を進めている。また澤村氏は、NPT(核兵器の不拡散に関する条約)で最終文書は採択されなかったこと、核軍縮に関する国連作業部会で検討された核兵器禁止条約やオバマ大統領提案の「核の先制不使用」に真っ先に反対したのは日本政府だったことを指摘した。
核の使用を正当化するために用いられ続けてきたキリスト教の論理
澤村氏は、キリスト教が核の使用の正当化にたびたび用いられてきたことにも触れた。トルーマン大統領は、原爆投下を神に感謝した言葉を残している。
We thank God that it has come to us, instead of to our enemies; and we pray that He may guide us to use it in His ways and for His purposes.
私たちはそれ(原爆)が敵ではなく私たちのほうにやってきたことを神に感謝する。そして神が、彼の望むやり方と目的によってそれを使用するように私たちを導いてくれたことを感謝する。
また広島と長崎への原爆を投下した爆撃機の出撃の際に、ルター派の従軍牧師ウィリアム・ダウニーとカトリック司祭のジョージ・ザベルカは、この任務が成功するように神の祝福を祈った。
米空軍は、核ミサイル発射担当将校にキリスト教のアウグスティヌスの正戦論を引用しながらの教育を行ってきたという。
核に抗したキリスト者たち
最後に澤村氏は、そのような中にあって広島で核に抗したキリスト者たちも存在したと4人の生涯を指摘した。
① 谷本清(1909~1986)
日本基督教団広島流川教会で被爆、1950年ピースセンターを設立、原爆孤児の「精神養子」運動や「原爆乙女」の渡米治療を勧めた。ジョン・ハーシーのルポルタージュ「ヒロシマ」にも取り上げられ、米国諸都市を訪ねて講演を行い、国際的にも広く知られた。「原爆戦争時代にはそれ相応の新しい倫理が必要である」と述べた。
② 松本卓夫(1888~1986)
1945年、広島女学院院長として被爆、妻を失う。戦後、渡米し被爆者として初めてトルーマン大統領に面会した。後に日本聖書協会新約聖書口語訳翻訳委員長としても活躍した。
③ 峠三吉(1917~1953)
結核を発病して療養生活を送っていたが、1942年にプロテスタント教会で受洗した。広島市内で被爆、1949年に日本共産党に入党、1951年に『原爆詩集』を刊行した。
『序』
ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせわたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせにんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
一方でカトリック信徒だった本島等元長崎市長は、加害責任が見落とされていると厳しく批判している。
原爆の被害は多く語られている。しかし原爆投下の原因は語られることは少ない。私はここで語らなければならない。広島は戦争の加害者であった。そうして被害者になったことを。(中略)
峠三吉よ、この言葉は親を皆殺しにされた中国華北の孤児たちの言葉だったのではないか。広島に原爆を落としたのは『三光作戦』の生き残りだったのではないか。
(「広島よ、おごるなかれ―原爆ドームの世界遺産化に思う」)
澤村氏は、これを鋭い指摘であるとしながらも、「峠の叫びに向かって口をつぐめというのは、結局は米国の人道に対する罪を黙認し、免罪することでしかないのではないか。罪も、被害者も、相殺することはできない。戦責告白と戦責告発は両立し得る。いや、しなければならない」と述べた。また、峠が「炎」という詩の中で原爆を「人間が神に加えた たしかな火刑」と書いており、そこには神罰理解や「燔祭」理解とは正反対の思想を述べているのではないかと語った。
『炎』
1945、Aug、6
まひるの中の真夜
人間が神に加えた
たしかな火刑。
この一夜
ひろしまの火光は
人類の寝床に映り
歴史はやがて
すべての神に似るものを
待ち伏せる。
④ 宗藤尚三(1927~)
(関連記事:オバマ大統領のスピーチをどう聞いたか 18歳で被爆し反核運動に身をささげる宗藤尚三牧師に聞く)
日本基督教団広島府中教会牧師として被爆し、戦後広島宗教者九条の会代表世話人や日本宗教者平和協議会常任理事長、「サヨナラ原発ヒロシマの会」運営委員長として現在も活動している。1980年代、NATOの中距離弾道ミサイル配備に対し、オランダおよびドイツ改革派は「いかなる然りも含まぬ否」を主張したことを紹介している。そして次のように教会で説教を語った。
「世界の唯一の被爆国として、また戦争放棄を宣言した平和憲法を持つ国として、世界から尊敬され、信頼される平和を創り出す国になることこそ、私たちキリスト者の歩むべき道であることを信じます」
燔祭説や核の平和利用に利用されたキリスト教の思想をいかに超えていくか?
最後に澤村氏は、平和学の研究者として知られるヨハン・ガルトゥングが、「積極的平和主義の欺瞞(ぎまん)」を語っていることに触れ、今世界の現実をもたらしているのは、新約聖書の「善いサマリア人」の例え(ルカ10:25~37)の「隣人愛」に潜む自己正当化ではないか、と問いを提起した。
「隣人とは誰か」という問いは「隣人」とそうでない者がいるという前提がある。「隣人」を鍵かっこでくくり「愛」が語られるとき、「隣人」でない者への戦争や差別などの振る舞いや視点が生まれる。そのような「隣人愛」を脱構築し、キリスト教が、燔祭説や核の平和利用に利用されてきた歴史を見据え、未来に向かって乗り越えていくための信仰の在り方をいかにつくることができるかを考えていきたい、と締めくくった。