被爆71年を迎えた広島では6日午前9時半から、カトリック幟町教会・世界平和記念聖堂(広島市中区)を出発点に、後藤正史神父(カトリック柳井教会司祭)と信徒の案内によるウォーキングツアー「2016ピースウォーク 軍都広島を歩く」が行われ、約30人が参加した。
ツアーに先立ち、後藤神父は「過去を見ることは未来に責任を持つことです。7月にポーランドで行われたワールドユースデー(世界青年の日)で、教皇フランシスコはアウシュビッツを訪ね、祈りをささげました。戦争に至る道のりを振り返るとき、広島は単なる被爆都市ではありません。同時に、大軍事都市、大兵站都市でもありました。日本が同じ道を踏み出すことがないように、過去の歴史を振り返りながら、共に歩いていきましょう」と語った。
(1)広島陸軍偕行社附属済美学校跡
この日、最初に訪ねたのは、爆心地から約700メートルの場所にある、広島陸軍偕行社附属済美(せいび)学校跡。偕行社(かいこうしゃ)は1877年に創立された陸軍将校の親睦団体。済美学校は、偕行社経営のもと1893年に設立された国民学校で、陸軍将校の高級軍人や陸軍文官などの子女が通っていた。
8月6日は給食日で登校していた児童約150人、教職員5人、その他軍関係者など合わせて約160人が亡くなり、遺体すら残らなかったという。敗戦に伴い廃校となり、現在は広島YMCAのビルが建っている。玄関の入り口に、学生服を着た少年と少女の銅像が建てられ、背面には、峠三吉の詩「墓標」が銅板に刻まれている。
君たちはかたまって立っている
さむい日のおしくらまんじゅうのように
だんだん小さくなって片隅におしこめられ
いまはもう
気づくひともない
一本のちいさな墓標
「済美小学校戦災児童の霊」(峠三吉の詩「墓標」より)
(2)元中国憲兵司令部跡
次に向かったのは、爆心地から約600メートルの場所にある、元中国憲兵司令部跡。
1945年7月28日、米軍は広島呉市を攻撃し、戦艦「利根」「榛名」などを撃沈した。日本軍も米軍機を撃墜し、生き残った搭乗員を捕虜として捕え、広島に移送した。この場所にあった、中国憲兵司令部など3カ所に収監されていたが、原爆により捕虜はほぼ即死か、当日のうちに死亡した。助け出されて手当てを受けた捕虜もいたが、数日のうちに全員死亡した。憲兵隊が遺体を埋葬し、この地に墓標を立てた。
現在はプレートだけが残っている。
(3)臨時帝国議会仮議事堂跡
1894年、日清戦争の開戦に伴い大本営は臨時に広島に移され、臨時の帝国議会が建設され、戦時下の第7回帝国議会(臨時議会)がこの場所で10月18日から22日まで開催された。これは東京以外で唯一作られた帝国議会だった。議会終了後は、建物は病院や陸軍幼年学校仮校舎として使われたが、1898年に撤去され、練兵場として使用された。
(4)歩兵第11連隊跡・略歴碑文(爆心地から870メートル)
連隊は、陸軍で師団、旅団、に次ぐ部隊編成単位。歩兵第11連隊は1875年に編成され、明治以降、萩の乱、西南戦争、日清戦争、北清事変、日露戦争に出兵。大正時代以降も、シベリア出兵、日中戦争、マレー作戦などに出兵した。太平洋戦争開戦後は、マレーシア、シンガポールで華僑や現地人の虐殺を行った。
この地には14中隊と通信隊からなり、連隊区司令部が置かれていた。
1994年8月、広島でアジア大会が開催されるに当たり、略歴碑文の中の「支那」「支」「大東亜戦争」「昭南神社」「各々勇戦奮闘、克く郷土の名声を高揚した」という文字が書き換えられ、現在の内容に改められた。
(5)大本営跡(爆心地から約900メートル)
現在の広島城の敷地の中にある。日清戦争中の1894年から95年にかけて、明治天皇が約7カ月間広島に滞在し、ここから国政をつかさどった。広島には陸軍歩兵第5師団があり、師団司令部が改築され、大本営・行宮(あんぐう)として使用された。
建物は原爆で倒壊している。
(6)中国軍管区司令部
広島城址公園内の広島護国神社の境内の石垣の下に、厚いコンクリート造りの半地下壕としてつくられた。本土決戦に備えて、第5師団が「中国軍管区」へ改称され、その司令部の遺構として現在も残っている。中は5つの部屋に仕切られており、当時は入り口側からそれぞれ「情報室」「無線通信室」「指揮連絡室」「作戦司令室」と呼ばれており、最奥部には広島中央放送局(NHK広島放送局)のアナウンサーが待機する場所も設けられていた。
8月6日当時、ここには学徒動員の比治山高等女学校(現:比治山女子高等学校)の女子学生が2、3人の交代で通信隊として勤務しており、この場所から新型(原子)爆弾の第一報が発信された。勤務に当たっていなかった女子学生は朝礼の時間で、地上に出ており、ほとんどが即死した。
(7)被爆樹木のユーカリの木
『はだしのゲン』の作者、中沢啓治さんの漫画「ユーカリの木の下で」の題材として描かれた、被爆を生き抜き現在も残る被爆樹木。樹高10メートル、幹周2・75メートルのユーカリの木。
ツアーの最後に、後藤神父と参加者は、原爆の犠牲者の平安と平和を願い、被爆樹木のユーカリの木の下で祈りをささげた。
このほか、広島市内には陸軍第5師団、陸軍幼年学校、糧秣廠(りょうまつしょう)など多くの軍事史跡がある。また隣の呉市には、海軍の大軍港があり、戦艦大和が建造されたことはよく知られている。被爆地として語られる広島が太平洋戦争中、重要な軍事都市だったことを、71年たった今もまざまざと感じさせられる貴重なピースウォークだった。
このツアーは、毎年8月6日午前8時からの「原爆・すべての戦争犠牲者追悼ミサ」の後に行われる。来年、この日に広島を訪ねた際には、参加されてみてはいかがだろうか。