長崎原爆の日の前夜、長崎市の浦上天主堂では、「浦上天主堂再現プロジェクト」が行われた。コンピューターグラフィックス(CG)を使った映像で、浦上天主堂の歴史や原爆の被害を再現する試みだ。
この企画の中心となったのは、同県諫早市出身の美術作家、酒井一吉さん(30)。被爆3世でもある酒井さんは、若い世代にどうやって被爆の記憶を継承しようかと考える中、「プロジェクションマッピング」という手法を用いて、浦上天主堂の壁面に映像を映し出すことを思いついた。
浦上天主堂のプロジェクションマッピングは、8月6日と8日の2日、夜8時半から行われた。8日は4回の上映が行われ、浦上天主堂前にある天主公園は8時過ぎには、整理券を待つ人の行列ができ、大変な人混みだった。
約10分間の映像では、江戸時代の禁制下にひそかに信仰を守り通した隠れキリシタン、隠れキリシタンの存在が250年ぶりに明らかになった「信徒発見」、浦上天主堂が建てられた様子、「浦上崩れ」と呼ばれる弾圧の歴史、さらにB29からの原爆投下、炎上し崩壊する浦上天主堂の様子などが再現された。
①(左)映像の開始前には原爆で倒壊した浦上天主堂の様子が投影されていた。(中央)1613年に江戸幕府が禁教令を出してから、浦上の信徒たちは、隠れキリシタンとしてひそかに信仰を守り続けた。(右)過酷な取り調べも行われ、「浦上崩れ」といわれる弾圧も行われた。取り調べでは十字像を踏ませる「踏み絵」も行われた。
②(左)長崎開港後、1865年に大浦天主堂のベルナール・プチジャン神父の元に、浦上の信徒がひそかに訪ね、キリスト教の信仰を持っていることを告白した。250年ぶりに隠れキリシタンの存在が明らかになり(信徒発見)、世界史上他に例がない出来事だといわれている。(中央・右)しかし、明治政府下でも禁制は続き、3000人以上の信徒が捕らえられ、津和野(島根県)などに流された。これらの人々は拷問を受け、600人以上が命を落とした(浦上四番崩れ)。
③(左)1873年に禁制が解かれると、浦上に戻った信徒たちは金銭や労力を出し合って、浦上天主堂を建築。完成まで19年の年月を要した。(右)1914年、浦上天主堂が完成。献堂式が行われた。完成した浦上天主堂は当時、東洋一の聖堂といわれた。
④(左)1945年8月9日、B29爆撃機「ボックスカー」が浦上の上空に。(右)午前11時2分、原子爆弾が投下され。
⑤ (左)原爆投下後、大きなキノコ雲が立ち上った。(右)爆心地から近かった浦上天主堂は炎上、崩壊。
⑥(左)聖堂内の司祭・信徒全員が死亡。浦上地区の信徒1万2000人のうち8000人が亡くなったといわれている。(中央)1959年に再建。(右)1982年にはローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が訪れ、平和を訴えるメッセージを語った。ハトは平和を象徴し、被爆地・長崎から浦上天主堂は平和を世界に訴え掛けている。
上映が終わると、その場にいた人々から自然と大きな拍手が起きた。
終了後、浦上天主堂を後にする人々の反応もさまざまだ。「すごいね」「きれいだね」と興奮気味の若い女の子たち。深くうなずく男性。静かに手をつないでスロープを下りる老夫婦。
諫早市から来たというカトリック信徒の女性(68)は、「今は諫早ですが、両親はこの浦上天主堂の信徒でした。私は昭和22年(1947年)生まれで、子どもの頃よくこの教会の周りで遊んでました。その頃は、まだ原爆で破壊された古い天主堂の遺構が残っていたのを覚えています。その後、解体されてしまったけれども、懐かしく思い出しました。浦上のキリシタンが禁制下、大切に信仰を守ってきた歴史や、浦上四番崩れの後、信徒たちが力を合わせ、お金を出し合って教会を建築してきた様子も映し出されていて本当に感動しました」と話した。
戦後70年、戦争と被爆の記憶をどう若い世代に継承するかは、大きな、そして大切な課題だ。若い世代の人自らが、このような新しい試みを通してそれに挑戦することは、大きな意義がある。
禁制・弾圧・被爆と、世界的にも非常にまれな過酷な歴史を経験しながらも、400年近くキリスト教信仰が守られてきた歴史が、まさにその中心にあった浦上天主堂の壁に映し出され、再現されたことは大きな感動だった。ぜひ、この試みを来年以降も続けてほしいと願う。
■ 浦上天主堂の壁に映し出された映像(8月6日、動画:Guan Chan)