関西学院大学(兵庫県西宮市)神学部と同大キリスト教と文化研究センターの主催で14日、「犠牲の論理とキリスト教への問い」と題する、東京大学大学院総合文化研究科教授の高橋哲哉氏の講演会が行われた。哲学者でフランス現代思想が専門の高橋氏は、『戦後責任論』や『靖国問題』『3・11以降とキリスト教』などキリスト教と関わる著作や、福島県出身者として『犠牲のシステム福島・沖縄』など多くの著作がある。哲学者として常に現場と関わりながら、さまざまな問題に取り組み続けてきた高橋氏はこの日、哲学・倫理の側からキリスト教に対する鋭く真摯(しんし)な問いを投げ掛けた。
高橋氏は初め、自身がキリスト教徒ではなく、またキリスト教が専門ではないことを前置きしつつ、靖国問題から話を始めた。靖国神社では、旧日本軍の軍人や軍属が、国家のため、天皇のために尊い命を投げ出し、犠牲をささげたということで顕彰されている。「どういう人であったか」は全く関係なく、日本軍の関係者として戦死すれば英霊としてたたえられ、その死が美化される。そして、「英霊を見習って国民もその後に続け」というメッセージを発する、と高橋氏は指摘した。
靖国神社を「追悼施設」だとする主張については、「追悼と顕彰は区別されるものだ」と説明。「追悼」とは、非業の死に対する悲しみの感情、「喪の作業」という心の働きであり、悲しみからは「こんな悲しい死者は二度と出したくない」という気持ちが生じてくる。しかし「顕彰」の場合、その死は「名誉の死」となり、その立派な死に倣ってその後に続けというものになる。高橋氏は「靖国は明治以来その役割を果たしてきた」と指摘。「祖国のための死」をたたえることは、日本だけではなく、欧米の近代国民国家もそれをナショナリズムの核とし、戦争を繰り返してきたと語った。
また、こうした「犠牲の論理」は、軍国主義・全体主義国家だけではなく、民主主義や自由主義の国も備えていると高橋氏は言う。韓国の軍事独裁政権に対して起きた光州民衆抗争(光州事件、1980年)で弾圧された死者たちが、当初は「国への反逆者」とされたが、民主化以降は「民主化のための崇高な犠牲であり模範だった」として位置付けが変わったことを例に挙げた。高橋氏は「もちろん靖国とは政治的に対極にある。しかし、国家が存続のために犠牲を要求するのと同様に、それに抵抗する民衆(市民)の側にも犠牲の論理があるのではないか」と語った。
さらに高橋氏は、この「犠牲の論理」がキリスト教の歴史の中で、古くは西欧の十字軍や、殉教者と殉国者の論理、カトリックの列聖・列福という制度の中にも存在するのではないかと問い掛けた。
長崎では2008年に、ペトロ岐部ら188人のキリシタン殉教者が列福された。この列福を進める中で、カトリック教会の信徒の中から「そこには靖国と似ているものがあるのではないか」と声が上がり、高橋氏は信徒や司祭らと共に勉強会を開いた。その中から、カトリック司教の森一弘氏らと共著で『殉教と殉国と信仰と』(2010年)という本が生まれたという。
この「犠牲の論理」はプロテスタントでも見られるとして、高橋氏は太平洋戦争中の1944年に出された日本基督教新報の記事「靖国の英霊」から、「基督教は血の意義を最も深く自覚した宗教である。即(すなわ)ち基督の血こそ救済の根元であるからである(中略)基督の血に潔(きよ)められた日本基督者が、靖国の英霊の血に深く心打たれるのは血の精神的意義に共通なものがあるからである」という記述を紹介。さらに、非国家的キリスト教の犠牲の論理としては、内村鑑三が日露戦争中の1904年に出した「非戦主義者の戦死」や、旧約聖書のエフタの物語を引用しながら「犠牲に犠牲、人生は犠牲であります。犠牲なくして人生は無意味であります」と書いている例を挙げた。
また、長崎・浦上で被爆しながらも医療活動に当たり、原子野の聖人と呼ばれた永井隆も、著書『長崎の鐘』の中で、「世界大戦争という人類の罪悪の償いとして、日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠(ほふ)られ燃やさるべき清き羔(こひつじ)として選ばれた」 と捉え、たたえるような記述を残していることを挙げた。さらに、米国の公民権運動を導いたマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師も、「第16番通りバプテスト教会爆破による幼い犠牲者たちへの告別の辞」で、事件によって死んだ少女たちを「人間の自由と尊厳のための聖なる戦いの殉教者となったヒロイン」と繰り返し書いているという。
「内村鑑三も永井隆もキング牧師も、“美しい死”を言う。しかし、尊い犠牲は常に美化される危険がある」と高橋氏は言い、靖国の論理と似た面があると指摘した。犠牲の論理は不条理な死を前に残された者に慰めをもたらす心理的な意味があり、「私自身も(こうした文を)読んでいてとても胸を打たれる」としつつも、「しかし、死を神の目的達成のために必要なものであったとすることにより、原爆投下という決断や、戦争終結を遅らせた日本政府の責任が曖昧にされることにつながる」と指摘した。
イエスの死を人間の贖罪(しょくざい)のために必要なものであったとして特権化するキリスト教の贖罪論は、「死をもってしか贖(あがな)うことのできない罪がある」という思想を前提としているとし、「これは犠牲の論理と同じではないか?」と高橋氏。「それは死刑を正当化してきたものではないか?」「十字架はイエスの処刑であったということの意味を考えるべきではないか?」として、高橋氏は「贖罪論なきキリスト教は可能なのか?」という問いを会場に投げ掛けた。
最後に高橋氏は、哲学の側からいくつかのヒントを提示した。フリードリヒ・ニーチェは『反キリスト者』の中で、“根源的キリスト者”としてイエスはユダヤ教の贖罪の論理を解消し、生はその存在だけで肯定されるべきものであるとして、それを教えと実践で示したのであり、イエスの死はその生の帰結であっただけだと結論付けているという。そして、キリスト教は贖罪論という神話的な表象をかぶせることによって、イエスの十字架上の死を過大評価し過ぎ、逆にその生を過小評価してはいないか、と問いを投げ掛けた。
ヴァルター・ベンヤミンは、『暴力批判論』において罪責連関を無効化するものとして、「神的暴力」という概念を提起している。また、フランスの哲学者ジャック・デリダは、「負い目」と「償い」、「罪」と「罰」といった罪責連関を滅ぼすような力として、無条件の「赦(ゆる)し」「歓待」「贈与」という概念を示した。現代のイタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンは、「ゾーエー」と「ビオス」の一致する「生の形式」という概念を提起している。高橋氏はこれら近現代の哲学者の提起を取り上げ、「そこにはイエスが語った言葉につながるものがあるのではないかと考えます」と話し、講演を締めくくった。