小原克博教授は同志社大学神学部教授としてキリスト教思想、宗教倫理学を専門として研究している。2015年に発足した良心学センター所長としても宗教、学問分野を超えた積極的な発信を続けている。なぜ「良心」なのか、話を聞いた。
学際的に実践的に良心を学ぶ
Q. 昨年、同志社で行われた環境をテーマにしたシンポジウムで、「良心」というものについて述べられていたのがとても印象に残っています(関連記事はこちら)。なぜキリスト教主義大学で「良心学」というものをセンター名として掲げられているのでしょうか?
「良心」という言葉が最初に用いられたのは、1863年に聖書の翻訳『新訳聖書』(ブリッジマン・カルバートソン訳)で「conscience」の訳語に『孟子』からとられた言葉を当てたのが最初とされています。新島襄が示した良心教育も、同志社と同じだけの歴史があるのですが、形骸化しているように感じていました。建学の精神を教える授業は以前からあり、新島襄の生涯や初期同志社について学ぶ中で「良心」について学びます。
でも、それも昔話的な知識で終わってしまっているのではないかと感じていました。新島が投げ掛けた「良心」を現代のわれわれが受け止めたらどう対応できるのか?を考えるために、専門の先生が自分の専門性から「良心」との接点を学際的に具体的に探っていく授業を始めたのです。
昨年は学長の村田晃嗣教授(アメリカ外交・安全保障)が国際政治の視点から、位田隆一教授(国際法・国際生命倫理)は国際生命倫理の視点から、内藤正典教授(国際関係論・イスラム研究)にはイスラム、木原活信教授(社会福祉・福祉哲学)にはキリスト教社会福祉という視点から講義し、学生に自分で考えてもらうという実験的な授業を行っています。
Q. 国際政治の視点から「良心」というのが興味深いですね。
個人が「良心」を発揮することはできても、国家に「良心」はあるのか? 個人の倫理規範が社会や国家レベルでは機能せず、逆転する場合もある。それを具体的なケーススタディーとして考えていきます。現代でもキリスト教、イスラム教、無宗教にかかわらず、宗教の違いを超えて取り組むべき課題が多い。国際テロ、難民にしても「良心」が求められる問題です。対立する価値観を踏まえながら、「共通善=コモングッド」や一定の妥協点を導くことは、まさにカントが求めたものであり、学問的な課題になります。
脳科学から見えてきた超越
良心学研究センターには脳科学(神経科学)、心理学の先生にも関わっていただいてます。人間が道徳的な判断をする際の脳の状態について、あるいは、サイコパスなど、ある遺伝子を持つ人、持たない人が特定の行動に陥りやすいということが今実証的に分かってきています。
米国では脳科学と宗教の共同研究は既に多くの実績があります。かつては脳波の研究で宗教的な体験は「電気信号」で説明できると考えられていましたが、近年はむしろ逆で「人間の脳はそもそも超自然的なことを考えざるを得ないような構造になっている」ということが見えてきました。
人間は前頭葉の推論能力が発達することで進化したために、自分の死や超越的なものを考えざるを得ない脳の構造になっています。それゆえ人間は宗教的なイシューから離れることはできず、人間が脳を持つ以上、宗教体験を単純に非科学的であると切り離すことはできない、ということが明らかになってきています。「脳神経倫理学(ニューロエシックス)」という分野は盛んに研究されています。
また、山極寿一先生(京都大学総長・ゴリラ研究の世界的権威)が類人猿研究から、人間の暴力性がどこに起因するかについて多くの著作を出しているように、動物学から新たな知見が出てきています。人間が持つ「利他性」は人文系だけでなく、理系の進化生物学などでも盛んに研究されていますね。
良心学センターでは二つの軸足を重視しています。
①今学問が細分化して見通しがつかなくなっているので、諸学問を連携させる「統合知」としての良心
②学問的追究だけでなく、社会をよくするために何ができるかを各人が考え実行する「実践知」としての良心
Q. 実践知という部分では、大津市の産業廃棄物処理施設計画反対運動に関わり、計画を白紙撤回させたというご経験などもつながっていらっしゃるのでしょうか?
私は自分をアクティビストとして定義しています(笑)。社会的弱者が存在することを認識したら、具体的にそのような人にどう手を差し伸べることができるのか? それをやるかやらないかで、その人のその後の人生が変わって来ると思います。自分だけのために生きるか、より利他的な精神をもって社会に出て行くかで、社会の有り様は変わっていきます。学生にも、今ある社会を少しでも良くするために、自分が何ができるかを考えてほしいと思っています。
台湾・香港・そして日本のシールズに共通するもの
Q. 例えば、昨年からさまざまな活動が話題を呼んでいる「シールズ」でも、中心となっている学生にクリスチャンや牧師の息子さんが多いですよね。奥田愛基君にしろ、関西学生連合の代表の一人の大野至君も神学部で学ぶ学生さんです。
彼らはフレッシュな視点で政治的なメッセージを訴えている。中心メンバーにクリスチャンが多いというのは偶然ではなく、実は東アジアにおいて共通している。香港の民主化運動(「雨傘運動」)でも、台湾の運動(「ひまわり運動」)も、あまり報道されていませんが、実は中心メンバーはクリスチャン。人口比では、三つの地域はキリスト教がマイノリティーなので、明らかに偶然ではない共通項がある。
彼らはキリスト教の信仰を持っているけど、運動の中で「キリスト教」を表には出さずに民主主義や自由は大切なことだという普遍的なメッセージを訴えている。でも、その底には信仰的な基盤があるのだろうなということは思いますね。
それを中国政府は分かっているので、本土で教会に対する弾圧を非常に強めている。教会を自由にさせると将来の民主化運動につながるので、早く目を摘んでおきたいと危機感を持っているわけですね。
日本近代とキリスト教 グローバル人材よりも「地の塩」を育てる
Q. そのような動きがまさに先生のおっしゃる普遍的な「良心」につながるのだと感じます。今「あさが来た」が大人気です。「花子とアン」の主人公村岡花子もクリスチャンでした。最近、朝ドラでもクリスチャンが取り上げられる機会が多いですね。村岡花子は広岡浅子の晩年に大きな影響を受けている、浅子は同志社出身の宮川経輝、山室軍平とも交流がありました。
近代日本の変化を振り返ると、必ずキリスト教が視野に入ってくる。当時キリスト教は、社会に近代を注入し、先んじて垣根を越えて交流していこうという気概や気風に溢れていた時代だった。数は少なかったにもかかわらず、実際に社会に影響を与え、何か新しいものを生み出す力と「アクティビズム」があった。
今はそれがだいぶ衰えて、社会が教会をはるかに追い越してしまって、教会は社会に追いつくのに苦労しています。今年、救世軍の山室軍平の映画が作られる予定です。若い人は山室を知らないけれど、きちんと「地の塩」として生きた人の生涯や事跡を知ると示唆を与えられる。
われわれは「地の塩」として生きた人を再発見し、育てて社会に対するカウンターにしたい。今日本の大学では「グローバル化」「グローバル人材」ばかりが叫ばれていますが、それは結局自分が勝ち組になり、そうすれば日本も勝ち組になれるという発想です。そういう国策としてのグローバル人材養成に乗るのではなく、足元の現実を見ることのできる「地の塩」として、小さくてもほのかな光のように輝く人物を輩出していくことを同志社は使命として負っている。
山室もそうだし、「地の塩」として生きた人々がたくさん同時期に出ています。こうした先輩をロールモデルとして、「今われわれは何ができるのか」を示すのがキリスト教主義の同志社大学としてのミッションだと思います。
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