あるテレビ番組で、母校に招かれた元巨人軍選手の中畑清氏が、非常に面白い助言をした。それは「人の言うことを聞くな!」であった。「人の言うことを聞く」方が大切な教えに聞こえるが、中畑氏は「お前には無理だ」というようなマイナスコメントを無視しない限り、決して良い選手にはなれないことを強調していた。
彼のコメントは私に強烈な印象を与えた。誰の言うことを聞き、また誰の言うことを聞かないかというのは、われわれが何をするときもとても大切な決断となる。信仰の世界においてもしかりである。
ヨハネの福音書10:3に「羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す」と書かれている。しかし同じ羊は、「わたし(キリスト)よりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった」とも書かれている(10:8)。
信仰でもビジネスでも学問でも、われわれは全ての人の声に聞き従うことはできない。正しい者の声を聞き分ける必要がある。われわれの周りには、ありとあらゆる評論家がいる。職業的評論家だけでなく、評論家的発言をする人が数限りなくいる。彼らは決して悪意を持って意見を述べるわけではない。しかし、評論家にはネガティブな発言が多い。
決して当事者ではない自分の意見を述べるということは、評価される側にとってはマイナス要因になりやすい。もっと厳しく言えば、評論家の多くは、評論する世界では成功しなかった人たちである。
映画評論家は、監督にも俳優にもなれなかった人が多い。政治評論家は、選挙に勝てなかった人、すなわち政治家になれなかった人が大半である。評論家は本当のプロではない。ありとあらゆる失敗を重ねながら自分の世界で成功した人たちこそがプロである。
評論家は理論家であり、実際はその世界に生きていないケースが多い。語学評論家もしかりで、現実的な言葉の世界で何が起きているかを無視した理論を堂々と解く人が実に多い。
われわれは何か夢を抱いたとき、すぐに人に意見を求めてしまう傾向がある。その世界で成功も失敗もしていない人に。それらの人は、相対的な常識論に基づいて意見を述べる。
私は30年ほど前に東久留米市に英会話学校を開いたが、その時こぞって言われたのは、「ここはアメリカ人が大勢いて皆英語を教えているので、畑はすでに荒らされており、英会話学校を運営するのはとても困難である」ということだった。
もし私が彼らの言うことを聞いていたら、そのかいわいで一番大きな英会話学校に育て上げることはできなかったことだろう。それに「難しい」とアドバイスしてくれた人たちが私を助けることは一切なかった。
その後も私は無謀と思われることを幾つも試みた。そして多くの失敗も犯した。でも、人の言うことを聞かなかったおかげで、幾つかの成功を収めることもできた。
われわれの心の中に、真実なこと、正しいこと、人のためになること、夢いっぱいなことが思い浮かんだら、それらを否定する理由がないので、人の言うことを聞かずに前進した方が良い。評論家に相談したら、きっと諦めてしまうだろう。
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