日本に景教を紹介した人物たち・その1
大河ドラマ「八重の桜」の山本覚馬も読んだ『天道溯原』(基督教証拠論)に「景教碑文」が掲載されていた。山本覚馬は『天道溯原』を読んで感動し、キリスト教に関心を寄せ、新島襄と話し合った有名な言葉を以下に紹介しました。
「その本はわたしにとっても有益だった。キリスト教についての多くの疑問を氷解してくれたし、長年わたしを苦しめてきた難問をも解いてくれたのだ。若い頃わたしは何とかして国家につくしたいと思い、そのために兵学の研究にうちこんだ。しかしこれだけではあまりに小さすぎると感じたので、人民のために正道が敷かれることを願って法学に関心を向けた。けれども長い間研究と観察を重ねた末、法律にも限界があることをさとった。法律は障壁を築くことはできても、それは心を入れかえることはできないからだ。心の中の障壁がなくなるとすぐ、ひとは盗んだり、嘘(うそ)をついたり、殺したりするようになる。法律は悪しき思いを防ぐことができぬ。しかしわたしにも明け方の光がさしてきた。今やわたしには、以前には全くわからないでいた道が見える。これこそ長い間、無意識のうちにわたしが探し求めてきたものなのである」(本文は、新島がハーディーに送った書簡で、新島が覚馬から聞いた言葉。『新島襄全集10』より)
2013年1月からNHKテレビの大河ドラマ「八重の桜」に登場した主人公、山本八重の兄・山本覚馬(1828~92年)が京都で宣教師に出会い、キリスト教に触れ、1885年5月17日に洗礼を受けました。その会津藩士がどうしてそうなったのかを調べました。
日本は1873(明治6)年にキリスト教禁制の高札を撤廃し、西洋の学問・文化・法律など、キリスト教も受け入れていく中、宣教師も入国しました。米国人宣教医師M・L・ゴルドン(あるいはゴードン。1843~1900年)は、1870年にアンドーヴァ神学校を卒業し、1872年にアメリカンボードの宣教師として大阪に派遣されました。一方で1874年にアンドーヴァ神学校を卒業し、米国から帰国した新島襄牧師も準宣教師として大阪に派遣されます。
翌年、大阪で新島はキリスト教立私塾の英学校を設立したいと考え、大阪府知事の渡辺昇に設立願いを話すと、真っ向から断られ、京都府知事の槇村正直に私塾設立趣旨を話すと了承されて建設に着手します。渡辺は1867年の長崎県浦上のキリシタン弾圧を加えた一人でもあったからで、逆に新島が勝海舟に私塾設立の話を持ちかけると、京都府の顧問をしていた山本覚馬に相談するように言われます。
同年4月、京都では博覧会が開催され、その最中に覚馬はゴルドンから米国長老教会の中国宣教師マーティン(Martin、あるいはマルチン)が漢文で書いた『天道溯原』を贈られて読みます。その中に「大秦景教流行中国碑」の原文も掲載されていました。その直後に覚馬と新島は出会います。
その『天道溯原』とはどんな内容の書物なのか? 私が所蔵しているものには、上巻、中巻、下巻があり、それぞれ各章に分けられてありますが、内容に関しては省略します。景教碑は、中巻の付録として徐光啓と大秦景教流行中国碑の原文が紹介されています。
覚馬は本書を読んでキリスト教に目覚め、聖書を読み、三位一体の神を信じて洗礼を受けました。それまで新島と同志社英学校の設立に向けて励み、府会議員の仕事など多忙でした。彼は本書を多数購入し、知人や刑務所の受刑者に差し入れたほど感銘を受け、この時、覚馬の眼は視覚障がいとなり、書物を読むのも不可能で、耳と霊で聴いては心を強めていたと思います。死を迎える1892年12月28日まで彼の信仰は堅持されていました。
当時のキリスト信徒にとって本書は、キリスト教を理解し、聖書や神に近づける最良の書物で、仏教との違いを理解するための良書でもあり、新島も本書を伝道用教材として活用したほどでした。新島は著者マルチンと1879(明治12)年ごろ、京都で会い、同志社を見学し、同志社ではこの年に第1回の神学科の卒業式を行いました。
次に『天道溯原』の著者について触れておきます。著者の中国名は丁韙良、米国名はウイリアム・アレクサンダー・パーソンズ・マーティン(William Alexander Parsons Martin、1827年4月10日~1916年12月15日)で、米国長老教会の宣教師として中国に派遣されました。彼は米国インディアナ州リボニア市で8番目の子として出生。父親も宣教師として活動し、息子は両親のもとで幼少からギリシャ語、へブル語、ラテン語を学び、神学と語学の素養を身に着けていました。
1848年6月30日、ニューオルバニー神学校を卒業し、1849年11月12日に中国南部への宣教活動の辞令を受け、兄夫婦の宣教師ほか、結婚したばかりの妻ジェーンと共に6月23日にアメリカンボードからの派遣を受け、ボストンから香港に向かい、寧波に到着。彼はそこで中国語を学び、中国語で宣教を開始。1854年に初版『天道溯原』を著すほど、中国語に堪能になっていました。
また儒教の書物を学び、儒教にも精通。漢文名の丁韙良の丁はマーティンの語尾のティから、韙良はウイリアムのイリから採ったと考えられます。1864年11月(刻字本)と翌年1月(活字本)に『万国公法』を北京で発行。やがて1898年に北京大学の前身である京師大学堂の初代学長となっています。
こう見ると彼は、神学、国際法学、語学、教育などを学び、それを動乱の中国社会にフィードバッグさせたほど幅広くその幕開けに生涯をささげた人物でした。一言で、神と人と社会に仕えた人物でした。彼の遺体は先立たれた妻の墓地がある北京の西直門外の外人墓地に置かれました。
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川口一彦(かわぐち・かずひこ)
1951年、三重県松阪市に生まれる。現在、愛知福音キリスト教会牧師。日本景教研究会代表、国際景教研究会(本部、韓国水原)日本代表。基督教教育学博士。愛知書写書道教育学院院長(21歳で師範取得、同年・中日書道展特選)として書も教えている。書道団体の東海聖句書道会会員、同・以文会監事。各地で景教セミナーや漢字で聖書を解き明かすセミナーを開催。
著書に 『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、2014年)、『仏教からクリスチャンへ』『一から始める筆ペン練習帳』(共にイーグレープ発行)、『漢字と聖書と福音』『景教のたどった道』(韓国語版)ほかがある。最近は聖句書展や拓本展も開催。