『記憶の癒し アパルトヘイトとの闘いから世界へ』の著者である南アフリカのマイケル・ラプスレー司祭(聖使修士会)が初来日し、9日に聖公会神学院(東京都世田谷区)で、「記憶の癒し 自由のための闘士から癒し人への私の旅路」と題して講演した。講演後、ラプスレー司祭は3人の参加者からの質問に答えた。
最初の質問者からは、「沖縄と福島の人々もものすごく傷ついている。どういう準備をすれば記憶の癒やしのワークショップが日本でできるか?」という質問が出された。
これに対しラプスレー司祭は、「私たちが正義のために働くとき、自らが達成したいことを必ずしも達成するとは限らない」と述べつつも、南アフリカでは、黒人はいつの日かアパルトヘイトが終わるだろうという希望を持っていたとし、「だから、私たちは平和のために働く、正義のために働く、最初の世代ではないことをはっきりさせておく必要がある」と語った。
その際にラプスレー司祭は、「私たちの多くは、あなたがたの憲法の平和条項(9条)を取り除こうとする試みを見て心配している。なぜなら、ある意味でこの条項は、『そう、私たちはたくさんの戦争をしたが、でも私たちの国では、私たちは常に平和を支持する』と言うための、記憶を癒やすことの一部だからだ。だから、あなたがたの憲法は人類のための希望のしるしの例なのだ。だから、私が日本で平和のために働く全ての人たちに言いたいのは、私は愛を込めて抱きしめにくるということだ」と付け加えた。
その上でラプスレー司祭は、「私たちは、記憶の癒やしワークショップのやり方を、だんだんと教えられるだろう。けれども、皆さんは、なおもそれをどうすればうまくできるか学ばなければならない」と述べた。一方、「私はこの本があなた自身の癒やしの旅と他の人たちの痛みに耳を傾けるあなたの意思の大切さを既に教えていることを望む」と語り、だからこそ講演の中で新しい言葉を作り出す大切さを述べたのだと語った。
次に、「個人的な恨み、もしくは個人的に本人を知っている場合は、なかなか赦(ゆる)しというものが出てこないのではないか? もし相手が分かっていれば、もしかすると違う赦しになったのでは?」という質問が会場から出された。
これに対しラプスレー司祭は、「キリスト教の伝統では、赦しというのは私たちの信仰の中心的なものだ。それが中心的であるが故に、私たちはそれを単純で安っぽい簡単なものとして話しがちだ」と語った。そして、「大多数の人間にとって、赦しというのは代償が大きく、それは痛みを伴い、困難なものだ。それに私が思うのは、大多数の人間は親密な人間関係における赦しが最も困難だと考えているということだ。また、実のところ、私たちはしばしば赦したくないのだ。だから、私たちがもし信仰者であれば、私たちは神様に『助けてください。私は赦したくないから』と、時々言う必要がある。正直になろう」などと回答した。
さらに、「人々が傷ついているとき、彼らは赦しの説教を必要としていない。彼らに必要なのは、彼らの痛みを聞いてくれる人なのだ。そして、傷ついている人々は説教を必要としていないことが多い。彼らは抱きしめてもらうことが必要なのだ。そして、恐らく、彼らはある日、赦しの旅路を行くことを選ぶだろう」とラプスレー司祭は語った。
「しかし、不正義の場合は、私たちは怒ることが正しい。もし南アフリカの人々が怒っていなかったら、私たちは今日もなおアパルトヘイトの下で生きているだろう。だから、怒りは正義のために働き出す助けとなり得る。でも、もし私たちが永遠に怒り続けたままであれば、その怒りは私たちをむしばむ。だから、聖書に『怒ることがあっても、罪を犯してはなりません』(エフェソ4・26)と書かれているのはとても興味深い。だから、言い換えれば、問題は『怒ることは何も悪くはないが、でも私はそれで何をするのか?』ということ。そして時に人々は、自らの弱さや至らなさに目を向けるよりもむしろ怒ることがある」と、ラプスレー司祭は答えを結んだ。
最後に、原爆投下後の広島に若い頃住んでいた母親を比較的早いうちにがんで亡くし、それに怒りや悲しみを感じている司祭が、個人間と(例えば国同士のような)団体間の和解の違いと共通性について質問した。
これに対しラプスレー司祭は、質問者に同情を表した上で、「あなたのお母さんに起きたことは悪いことだということで合意できる。それは何か悪いものによるものだった。だから、それは真理であり続ける。けれども、あなたの痛みの中から、それはあなたをよりよい司祭にしただろうか? それはあなたを苦しめたのか、それともそれはあなたを憐(あわ)れみのうちに成長させたのか? そして、あなたのお母さんはあなたに何を望むだろうか? それは癒やしに関わることだ」と回答した。
その上でラプスレー司祭は、「悪の中から出てくる善、死の後に来る命」について語り、「私たちの信仰共同体に対する招きの一つは、私たちの信仰共同体が完全でなくてもよい、弱くなれる、自分たちの痛みを話し始めることができる場であるべきだということ。私たちが前へ進むべく慰められることができるように」と述べた。
そしてラプスレー司祭は、「例えば、新約聖書では、癒やしはしばしばそれ自体が目的の癒やしではない。イエスによって癒やされた人々は、癒やされたときにどう応えたか? 聖書にはしばしば、『彼らはイエスの後に従って行った』と書かれている。彼らは神の国のために働く人々となったのだ。なぜなら、彼らはもう十分健康になったからだ」と述べた。一方、「私たちの人生の旅路では、いつも新しいトラウマがあり、新しい痛みがあるだろう。私たちはその痛みを癒やす道具が必要となることが多い」と述べて、答えを結んだ。
『記憶の癒し』の監修者で、この講演会の司会を務めた西原廉太氏(立教大学文学部長)は、同書のあとがきで、「ラプスレー司祭の置かれた状況はあくまでも、南アフリカの文脈であるが、しかし彼が伝えたいことは、まさに、いま、私たち日本のキリスト者が直面している諸課題と共振するものに他ならない」と記していた。西原氏はこの「共振」について、今回の講演会で本紙に対し、「憲法9条などいくつかのものはできたと思う」と語った。
■ マイケル・ラプスレー司祭講演会:講演・質疑応答