宗藤尚三著の『核時代における人間の責任―ヒロシマとアウシュビッツを心に刻むために』(ヨベル)が5月に出版された。2010年に出版した前著『心の内なる核兵器に抗して―被爆牧師のメッセージ』(キリスト新聞社)が出版されてから約4年。本書はその続編と言ってもよいだろうと著者は記している。
前著は出版後、広島原爆投下の日を前に国際キリスト教ニュースメディア「エキュメニカル・ニュース・インターナショナル」(ENI、昨年9月に活動終了) でも取り上げられた。「Nuclear weapons about values, says pastor who survived Hiroshima(核兵器は価値の問題、とヒロシマで被爆し生き残った牧師が語る)」という英文記事により、前著における宗藤牧師の訴えは国際的に知られることとなった。
米国の研究機関である「アクション・インスティテュート」の研究者兼編集長のジョーダン・バロール博士はこの記事に言及し、「核兵器に対するエキュメニカルな提言活動は1960年代以来衰えていない」とコメントした。
そのENIの英文記事で前著の著者が「如何なる然りも含まぬ否」と語ったのは、「人類を破滅に陥れキリスト教信仰とは相いれない核兵器と絶対悪」に対してそう言い続ける「義務と責任」が世界の教会にはある、ということであった。その言葉は、本書によればドイツ改革派教会の平和宣言に出てくる言葉だという。
しかし、本書の帯には「<兵器>であれ、<平和利用>であれ、人と自然の存在を脅かす核の拡散には「如何なる然りも含まぬ否」を訴えていかなければ」と記されている。つまりそれは核兵器のみならず原発に対するものでもあるということだろう。そこが前著との違いである。
著者は、前著が「2011年のフクシマの原発の大事故以前に書かれていたこともあって、原発の問題にたいしては積極的に問題として取り上げていなかったことは、自分の怠慢であったと反省せざるを得ない」という。
本書で著者は「現実に東日本の大震災による原発事故によって、原爆問題と原発問題はコインの裏表の問題であることが明らかにされた」とし、「原子力問題を中心に、その人道性を問うとともに、原発や核兵器を中心にした現代の核文明に生きる一個人として、一体何ができるのか、原子力文明が犯すかもしれないその結果について、私たち一人ひとりはどのような責任を担うことになるのか、という罪責の問題を問わなくてはならないと考えるようになった」と述べている。
ヒロシマとアウシュビッツとの関連でどのように論じられているのか、そして核時代における人間の責任とは何か、実際に本書をお読みになってお確かめになることをお勧めしたい。そこには、広島で被爆して生き残り、牧師となった筆者にしか書けないであろうことが刻まれている。これは日本のみならず、現代の世界に対しても、重大なメッセージを発しているのではなかろうか。
本書も前著のように海外で紹介されることがあれば、前著と同様に、きっと何らかの反響があるに違いない。本書はそう思わせる国際的な意味を持つ一冊である。