不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(73)
※ 前回「堕落とは人生の深掘りである(その2)」から続く。
幸い
税は皇帝から課せられたもの。罪はわれわれが積み重ねてきた神への負債。だとして、負債を返さないと、いろいろとペナルティーが課せられる。税金の場合は延滞税となる。利率は市中金利よりずっと高い。神に対する罪もだんだんと積み重ねられ、その総量は膨らんでいると思われるが、実のところ、その実体は全く不明である。
神の前に積み重ねている罪の総量をわれわれ自身が知らないというのは、幸か不幸かどちらかと問われれば、それは「幸」なのではないだろうか。私は神に対して負債を少しも返済できている、とは思えないし、そもそもその返済手段が分からない。日々、わが罪はキリストによって償われているのだろうと、漠然と願うしかない。もしかしたら、そのように願ってもいないし、実のところ、キリストによって贖罪されるとは信じてもいないのかもしれない。逆に言えば、このように緩みきった人生であるが故に、私は全面的にキリストに頼り切って生きている可能性もある。何がどうなっているか、しょせん人間には計り知れないものなのだ。
人生のプラス領域
私は、神のものは神へというイエスの言葉の中に、「おのが罪は神に返せ」という飛躍を読み込んでいるわけではない。そもそも負債というものは、マイナス状態なのだから「0」ではない。それでもあえて言わせてもらうならば、宗教というもの、信仰というものは、人にプラス領域の「生」を与えるものであるべきなのだ。「0」状態に戻りましょうね、というものではない。せめてマイナスではなく「0」状態で生きていきましょうというのは、道徳か、あるいは高級な言い方をすれば、哲学分野の話ではないのか。
われわれは税金を支払うために生きているのではないが、支配者から見れば、われわれは税金を納める名簿の一部に過ぎない。その点は、帝国主義も、共産主義も、社会主義も、資本主義も同じであろう。
しかし、である。善であり、人を愛する方であられる神にとって、われわれは膨大な負債名簿の一部に過ぎないなど考えるべきではないのだ。われわれ個々人はいと小さき者ではあるが、それは膨大な名簿の一部に過ぎないという意味の「小ささ」ではない。
トラウマ
少し方向を変えるが、「あなたより与えられたもの(ほぼお金)の一部を、感謝のしるしとして、あなたにお返しします。あなたの御用のためにお使いください」。これは献金のお祈りだ。プロテスタントの教会付属幼稚園で育ち、教会学校、そして教会へと、しっかりとその手順をたどった者として、献金のお祈りは吉野家の牛丼よりも多く口にしてきたものである。牛丼は好きだから今でもおいしく味わうが、献金のお祈りだけはノーモアーだ。今行っている正教会には、そのようなものがないのでありがたい。
「お金は神から与えられたもの」なのであろう。プロテスタント信者にとっては、多少なりとも実生活を支えるもの全てが神からの贈り物なのだろうが。敬虔なプロテスタント信者であった両親にとって、自分たちが手にしている貨幣が神からの贈り物だということは、疑いようのないことだったに違いない。ところが、教会付属幼稚園から順を追って育てられた息子には、残念ながらそういう感覚が全くない。そういう意味で私は「プロテスタント族」の中では特殊な感性を持っていたのかもしれない。
「あなたより与えられたものの一部を、感謝のしるしとして、あなたにお返しします。あなたの御用のためにお使いください」。苦痛だ。全くの苦痛だ。「感謝のしるしとして貨幣をささげる」であれば、まあ、それは理解しよう。しかし、「貨幣を神にお返しする」という感覚っていったい何だろうと思う。「神の御用として」というところで、結局は教会の都合のために使用されるのであるから・・・。
神に帰すべきもの
神にささげるべきもの、神に返すべきものは、カエサルのものでは無理ではないか。返すべきものは、デナリオン銀貨ではない。そんなことは当たり前である。議論の余地もない。このような話題は何度も繰り返してきたが、返ってくる答えは決まっていた。「私たちがささげているのは感謝のしるし、つまり神様への感謝という心を『お金というしるし』に代えてささげているのです。ささげているのは、お金ではなくて心です」。ごもっとも。素晴らしい答えである。反論する気にもならない。
それでも私は問う。心は数えられないし、心だけでは教会は維持できないだろう。さらに言えば、「感謝のしるし」はデナリオン銀貨(お金)でなければならないのか。答えは読者にお委ねしよう。
罪を犯すも自由意志
それにしてもやっかいな問題だ。われわれの生活は、それでもやはり、デナリオン銀貨に支配されているからだ。皇帝のものであふれかえっているのだ。それが現実だ。エデンの園には皇帝のものなど何一つなかった。全てが神のものだった。全てを人間は自由にできた。ただ一つ、命の木の実(リンゴということでよい)を除いてだ。
なぜか、サタンはエデンの園にもいた。理由は分からない。サタンは、アダムとエバに命の木の実に目を向けさせた。たった一つ、この世で自由にできないものに。つまり、人間の手には委ねられていないものにだ。
エデンの園に生きる人間は、自分の人生を深掘りする必要などなかった。なぜなら、全てが自由だったのだからだ。人間は自由に考え、自由に選ぶことが可能であった。それは今も変わらない。人は人生を深掘りせずに生きられたし、深掘りして生きることもできた。
それでも、この世でたった一つ、自由にできないもの、しかし、現実としては手にして口にすることが可能であったもの、それがあの禁断のリンゴだったのである。可能であったから実行した。食べたら死ぬと言われても、なにせ、2人は死ぬということすら全く理解不能だったのだから、死の恐怖すらない。サタンに誘惑されて、2人は人生を深掘りした。人生の可能性を試したというべきか。禁じられたことも可能である、だから実行してみるという、そういう意味の人生の深掘りである。
神のものを神に
堕落とは死の現実である。きっと誰かがそのように表現しているだろう。生まれながらに罪があるということと、人間全てが堕落しているということは、どうも同義であるらしいが、そんなことはどうでもよい。自らが自由にしてはいけないものを自由にしてしまったときに、人間は堕落したのだ。可能であったから実行したが、それは間違いだったということだ。何事も可能であるから実行してもよいとは限らない。それは全てにおいてだ。
われわれ人間は、全体として、また個人として、実行可能なことがたくさんある。でも、実行してよいかどうかを判断する能力は多くが欠けている。むしろ、実行すべきことは限られている。
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。これはいわゆる「とんち」ではない。悪人に対する知恵でもない。われわれが神に対して実行すべきことだ。この世には皇帝のものが満ちている。と同時に、神のものも満ちているはずである。故に「吟味せよ!」だ。自らの人生において「吟味せよ!」だ。そして、皇帝のものではなく、神のものを神に返すべく、人生を生きていかなければならない。それが、神の支配の中に生きるということでないのだろうか。(終わり)
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