不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(63)
私はグレイトになりたい
わが誇りはいずこにありや――。私は「グレイト」な人間になりたいと願っている。「ビッグ」ではなく「グレイト」である。大きいだけでは意味がないのだ。ダントツで褒めたたえられる人間になりたいのだ。自分磨きとはそういうものではないか。完璧な人間として誰からも陰口をたたかれることなく、ただただ称賛と羨望の眼差しを注がれる存在になりたいのだ。そうでなければ生きている意味がないようにさえ思うのである。
では、どのようにして、また何によって、このわが願いをかなえられるのか。これは誰しもが考えることであり、そして誰もが答えを持っていない。なぜならば、人間には越えることのできない「壁」があるからだ。それが「死」というものではないか。真にグレイトな人間であれば、死さえも超越しなくてはならないと思う。そうでなければ、「あの人も結局は他の人と同じように、最後は死すべき運命だったのだ」と言われてしまうからだ。
できれば生きている間にグレイトになりたい
「名誉の死」というものはある。「聖なる死」というものもある。しかし、大抵の人間は「普通の死」であろう。その普通の死に対しても「安らかさ」を求める、それが「普通」の人間だ。なかなか苦しみ抜いて死んでやろうという勇気は湧いてこないものだ。
とはいえ、私が思うに、死を迎える以前に人間というものは、死に苦しんでいる。それはちっともグレイトではない。死後の名誉も欲しいが、できれば「生き神様」のごとく扱われたいのだ。そういう意味合いで考えると、どうも生きている間に大きな業績を積み重ねた人間ほど、さらなる上澄みを望むようだ。特に軍事や政治の世界にはそういう傾向があると思う。
では、宗教の世界はどうだろうか。宗教分野の業績というものは測りようもないのだが、それでも聖職者の場合はいろいろと見ようと思えば、それなりに目に見える名誉というものがある。しかし、それが一般信徒の場合は、どうにもこうにも雲をつかむようなものだ。その人の死後に聖人化される場合もあるだろうが、生きている間はそういうことにはならない。
グレイト認識されないとダメだ
私がグレイトなのか、あるいは「グレイトになれる要素があるのか」に関していえば、それは私が判断することではない。要するに、誰かに認めてもらわないといけないわけだ。いくら「私はグレイトである」と叫んだところで、中身がなければただただ滑稽なだけである。なぜ私がグレイトであると世の人は認めないのか私が疑問に思ったとしても、そういう私を人は疑問に思うだろう。あるいは心から憐(あわ)れんでくれるのかもしれない。
故に、誰かに、しかもなるべく大勢に「認識される」ということが大切になるわけである。ビッグな人間であると認識されるのも相当に難しいことであるから、グレイトとなれば、それはもう大変なのだろう。何をすれば認めてもらえるのかを考えること、つまり、グレイトへの設計図を持つことがその一歩となるわけである。
信仰によって義とされる?
人が人を認めるというのは相当に困難である。外面的な成果についていろいろと語ることはできるが、人間として、つまりその人の人生トータルとして、ビッグを超えるグレイトとなると、それは相当に限られるケースだけだ。
私のように、人からは認められたいが、人を認めることなんかクソ食らえと思って生きている人間は意外と多いのだが、「人生の隅々まで行き届いたグレイトな人」は本当に存在するのだろうかと考えてしまう。どんな人間にも痛い部分はある。その気になれば、どんな人間もいくらでも非難できると思ってしまう。そういう人間には「認める」ことの価値や勇気というものは、なかなか分からない。
パウロは「われわれは信仰によって義とされた」と語った。それは信仰という物差しによって、神から認められたということである。われわれの信仰が、神から認められるほどのグレイトな人を生み出すのであろうか。次回はその点について考えてみたい。(続く)
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