不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(62)
※ 前回「ちょいとヤバイ話をしようと思う(その2)」から続く。
教えに反すると簡単に告発してはならない
聖書の教えに反しているという諸々のことについては、その気になれば、いくらでも言い訳が可能であるが、それでよいのかという気もする。というのも、聖書を読みながら言い訳を考えるとしたら、そもそも聖書の教えを重んじていないのだろう。かく言う私も、そのように生きてきたわけであるが。
聖書が指摘する罪については、今日でも犯罪に該当するものもあるが、大抵は今日では犯罪というほどのものではない。例えば、悪癖の類いである。現代において「神を知らない罪」はないし、「偶像礼拝罪」もない、という具合である。かつては偶像礼拝をしたという、ほぼほぼ冤罪的な告発によって処罰を受けるということもあったと聞く。だが、そもそも偶像とは何であるのかという、とても曖昧な問題を残したままで「偶像礼拝罪」というものを適応してはならないと思うのであるが、どうであろうか。
誰かをおとしめる場合、この「偶像礼拝」という言葉はとても都合がよい。しかし、その肝心の「神を知っている」かどうかは、立証不可能に近いわけで、告発者にはその辺は「どうよ」と問いかけたい。つまり、神を完全に知らないわれわれ人間が、どうして偶像礼拝を告発できるのだろう。
じっくりと取り組んだ結果
あなたが礼拝しているものは「偶像である」と指摘するのは簡単ではある。それはもう「言ったもん勝ち」に近い。われわれはもっと紳士的になるべきではないか。十字架が華美であるとか、祭服が派手過ぎるとか、そういう類いのことを「偶像礼拝」として告発してよいのか。それぞれの教会(教派、教団)には伝統があって、もちろん、そこに至る過程と論理があるのだ。
偶像をイエスに取り替えるべし
パウロにとって、目に見えるものを媒介として神を礼拝するというのは、とても違和感のあることだったと思う。なぜ神像なのか、なぜ聖画なのか、そういう類いのものがなくても礼拝は可能であったし、事実としてユダヤ人はそのような伝統の中に生きてきた。過剰なまでに目に見える媒介を排除してきた。それはそれで立派なことであったと思うが、本当のところ内実はどうだったのか。
神を「人間や鳥や獣や這(は)うものなどに似せた像と取り替えた」(ローマ書1章23節)とパウロは批判している。これは特定の宗教に対するものではない。むしろ、大抵の宗教は神像や聖画を用いる。だからむしろ、そうではない信仰の在り方があるという意識付けなのかもしれない。初期のキリスト教はユダヤ教の伝統を相当に引き継いでいるので、神像も聖画も用いない。イコンと呼ばれる聖画を用いるようになったのは後の時代である。その是非をここで語るつもりはない。あえて言うなら、イコンはキリスト教信仰に適うという意味付けもきちんとされていることを述べておく。
イエスご自身が「私を見た者は神を見たのだ」と語っているように、イエスが神の姿なのである。パウロが言わんとするのは、イエスが神であるという事実なのだ。彼においてはいつもそれが主題となっている。いかにしてイエス・キリストに出会うか、それがパウロの宣教なのだ。だからパウロは、ローマの信徒たちが、「人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像」を神とする生き方から、キリストを救世主とするように変わることを期待していたのだと思う。
ここからがヤバイ話
その延長でパウロが提示する諸々の恥ずべき行為についても考えていくべきなのだ。ただ言葉を羅列しているのではない。「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され」(同28節)た、とパウロは述べている。その結果として諸々の罪悪が生まれたと言う。
さて、現代において論争の的となるのが、男も女も「自然の関係を捨てて・・・男どうしで恥ずべきことを行い」(同26~27節)という部分である。パウロが同性愛を良しとしなかったというのは事実であろう。というかユダヤの伝統ではそれが「良い」とされたことは一度もない。しかし、現代の価値観、最近では「多様性」と呼ばれたりするが、そこに焦点を置き始めると、かなりしんどいことになる。
性の多様性、性的少数者の尊重というのは、21世紀になってからは割と当たり前の価値観となった。その担い手は進歩的なキリスト教会であったし、熱烈大反対もまた、主に保守的なキリスト教会からなされた。その結果どうなったのかというと、それは結論などないわけで、現代のキリスト教会はかなり混乱している。
「パウロは古い価値観に縛られていたのであって、パウロの考えを現代に適応はできない」と語る人は多い。そうかもしれない。多分そうだろう。ただ事実として述べておくが、パウロは同性愛だけを否定しているわけではない。その後、29節以下に長々と恥ずべき行為を羅列し、相当に厳しい言い方をしている。これが今の人間の姿だとパウロは断罪する。それは、神を神でないもの(偶像)に取り替えた結果として、このような無価値な思いと行動に引き渡されたのだと言うのである。であるから、パウロはローマ書で「禁止」事項を羅列したかったわけではない。神から離れた人間の現実を描いたというのが本当のところなのだ。その一つとして同性愛も含まれているのだ。
それは現代社会においては認められるべき価値観かもしれないが、パウロにはそのようには見えていない。パウロの価値観にはそれがなかったのである。そこに逃げ道をつくるつもりはないし、実のところ、キリスト教的な価値観としては、同性愛は良しとはされないだろう。
同性愛者も性的少数者も隣人である。隣人愛を果たすということにおいて、確かに少数者を擁護しなければならない。軽んじてはならないのだ。だから個々人を断罪すべきではない。であるから「容認せよ」と言えば、それも違うだろう。この点は大事なのだ。キリスト教は諸々の悪癖(あえて性的な事柄も含めてこのように表現する)を受容もしないし、容認もしないのだ。
都合の悪いことに向き合うべし
キリスト教は諸々の悪癖に関してはけして寛容ではないのだ。ただし、悪癖をなしてしまう人間を軽んずることはない。人間は罪を犯すし、悪癖に染まりもするからだ。そんなことをわれわれが知らないわけがない。というかわれわれ自身もその一人である。とても自己義認などできないし、大抵の人はそんなことはしないだろう。ただ頭を垂れて「ごめんなさい」と神に懺悔(ざんげ)するだけだ。どうにもこうにも変えられなかった自分というものを反省しつつである。
同性愛は罪か、性的少数者は罪人か、ということではなくて、パウロは人間そのものがかなり多くの罪と悪癖の中に放置されていると告発したのだ。恐らくパウロもその一人として自己を認識しつつ。では、このような人間、パウロ流にいえば、「正しい者は一人もいない」というこの人間には、どういう可能性があるのかと論じていくその途上で述べていることなのだ。
だからあえて語るが、われわれにとって同性愛は悪か、罪かという事柄は本筋ではないのだ。それはかなり脇道といってよい。われわれが歩むべき本筋はいつもキリストの道であることを、われわれは心してこの世の全てに向き合うべきなのである。キリストの道は愛と救いに満ちていると信じているなら、その道にとどまって、自分にとって都合の悪い事柄であっても、しっかりと向き合うしかない。その結果として神への懺悔があれば、それが最も正しい生き方だと私は思う。(終わり)
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