不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(61)
※ 前回「ちょいとヤバイ話をしようと思う(その1)」から続く。
パウロはローマ書で断罪する
「神を知りながら、神をあがめることも感謝することもせず」(ローマ書1章21節)とパウロは述べているのであるが、現代人としてどのように反論すべきだろう。「神の永遠の力と神性は被造物に現れ」(同20節)ているとパウロは説明する。つまり、この被造世界において、われわれは神を十分に知り得るということだろうと思われるが、それが本当だとしても私には実感がない。
実感がないというのは、かなり絶望的だ。言葉では説明できないというのであれば、まだ希望はある。被造物とは人間だけを指し示しているわけではないが、しかし人間もまたその一員ではある。この事実を軽んじる人がいる。被造世界の中で人間だけが特別に「悪」であると強調する人がいるが、とても残念に思うのだ。人間にも「神の永遠の力と神性」が現れていると認めなければ、キリスト教は成り立たないと思うのであるが、どうだろうか。とはいえ、私には実感がない。
現実的には、われわれが人間に見いだすものといえば、大体が「ダメ」な部分であって、そういう傾向は特に「自分自身」に対するときに強くなるのではないだろうか。確かに、聖書というものが有益だと思うのは、しばしば人間の罪というものの深刻さを教えてくれるからである。しかも自認できない罪の重さを知らせてくれる。これはとても大事なことである。われわれは自分がかなりダメだということは知ってはいるが、同時にそのダメさ加減に安住してしまう。
ついでに最後の審判について
救いのないことを言うが、恐らくわれわれは、自分が知っている以上に罪深いのではないか。罪を知りながら罪にとどまることはダメだと聖書は教えているように思う。だからキリストは、最後の審判についてかなり厳しい言い方でわれわれに警告を与えているのではないか。最後の審判の時、つまりキリストの再臨の時には、死者も生者も同じように裁かれるのだ。そこに神の妥協はないように思う。だからキリストは、その時は「私が弁護者としてあなたを守る」とは言ってくださらない。
言ってもよさそうなものなのに、実はそういうことは言っていない。最後の審判でなければ、キリストはわれわれと神との間の仲介者として、あるいは弁護者として付き添ってくれるはずだろう。しかし最後の審判とは、そのキリストによって裁かれる時なのだ。弁護者である方から審判を受けるのだ。そりゃ、考えようによっては「めちゃくちゃ怖い」ことになるのではないか。
神は厳しい?
私個人としては、最後の審判など「まな板の上の鯉」でしかない。私の審判を代わりに受けてくれる人はいない。神は愛であるから過酷な審判はないと思ってはならないだろう。われわれに予断は許されていないのだ。
神の裁きの前に立つとは、実に厳しいことなのだ。当たり前である。また、最後に審判があるなら、その途中にも審判がまたあり得るのではないかと、ついつい考えてしまう。これはへ理屈ではなく、事実としてわれわれは、絶えず神の目にさらされていることを知るべしなのだ。神は人間に対して無関心ではない。もしも神がわれわれの日常に無関心であるとしたら、全くもって生きることは絶望である。
私は素直に謝罪はする
神が期待される完全な人間にはなれない。それは分かりきったことだ。だとしても、ダメな自分に安住するというのも夢がないではないか。「どうせダメですから、私はこのままでよいです」と考えているとしたら、恐らくそういう人は神を信じてはいないのだ。神には「このままでよい」と言ってもらいたいが。
パウロは最善を尽くせと言っているのではない。何でもかんでもへ理屈をつけて「悪」に安住してはならないと言っているだけだ。悪を行うのは悪なのだ。致し方なしではない。悪をなして「仕方ないじゃないですか」と言ってはならない。悪をなしたら「ごめんなさい」ではないか。律法の時代ではダメなものも、現代社会では許されるのではないか、そのような逃げ道(言い訳)を用意している、そんな生き方をしていないか点検しなければならない。もっとも、点検をしたら直るものでもないが。
私は裁きに耐えない人間ではあるが
今の私は裁きに耐えない。それが事実だ。それでもキリストは、はっきりとわれわれに教えてくれたではないか。「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」(マタイ福音書25章45節)と。
なるほどである。イエスは期待している。それは神が期待しているということだ。飢えたり、渇いたり、旅の途上、強盗に襲われて裸にされたり、病気になったり、そのような時に人は「ケアされること」を望む。そのような隣人がいるなら、その期待に応えるべきなのだろう。逆にいえば、神は何も手に届きそうもない崇高な何かを求めてはいないのだ。神が求めているのは、隣人への何かである。
その何かが足りない。だから私は裁きに耐えない。それが事実なのであって、そこに安住してはならないのだが、どうにもこうにも「もがく」しかない。しかし、あえて言うなら、そのもがきが大事だ。諦めないでジタバタする。何とかどうにかこうにか神の裁きという現実に目を向けていくしかないのではないか。それがいわゆる「先送り」であったとしても、「悪」に安住よりマシだ。
だからパウロはあえて厳しいことを語ったのであろう。自らの悪に対して「言い逃れはできない」と通告しているのだ。パウロはローマ人に対して厳しい言い方をしている。「あなたがたが安住している現状は悪なのだ」と通告しているのだ。「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ書3章10節)。これがパウロのキリスト教信仰の原点であったと思う。人間は正しく生きられないのだが、それでも神は、われわれの罪の現状を黙認はしないのだということは、肝に据えないとなるまい。(続く)
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