本書『希望による救い』は、先代の第265代ローマ教皇ベネディクト16世(在位2005年4月19日~13年2月28日、22年12月31日死去)による回勅です。回勅とは、教皇が信者の信仰生活を指導することなどを目的に、全カトリック教会に宛てて送る書簡で、重要度の高い教書とされています。『希望による救い』は2007年に公布されたものですが、教皇ベネディクト16世による回勅としては2番目のもので、その前は05年に『神は愛』という回勅が公布されています。
ベネディクト16世はドイツ出身で、本名をヨーゼフ・ラッツィンガーといいます。叙階後、神学者として高く評価された人です。その意味で、本書は「希望とは何か」ということを教示する優れた神学書ということもできると思います。
パウロは自身の書簡に、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります」(1コリント13:13)、「あなたがたが信仰の働きを示し、愛のために労苦し、また、私たちの主イエス・キリストに希望を置いて忍耐していることを、絶えず父なる神の前に思い起こしているのです」(1テサロニケ1:3)と記している通り、「信仰・愛・希望」を大切にしています。
1番目の回勅『神は愛』は、この3つのうちの「愛」について語られています。その結論は、「まず神が私たちを愛され、それによって私たちも愛する者とされる」ことであると、私は読み取りました。これは、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥(なだ)めの献(ささ)げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する人たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです」(1ヨハネ4:10~11)とある通りです。
それを基にして本書を読みましたが、2番目の回勅である本書においても、「真実の希望は、神以外にありえません」(56ページ)とした上で、その神と私たちの関係は、「すべての人のあがないとしてご自身をささげた」イエスとの交わりを通して築かれるものであり、そのイエスは私たちに「他の人のために生きるよう命じます」(57ページ)とし、「希望は神にのみあり、それは自分だけでなく他者との関係においてなされる希望である」ことが示されています。「神から他者へ」という図式は、「愛」だけでなく「希望」においても同じなのだと思わされました。
本書は「希望」を新約聖書から定義付けています。それは、ヘブライ人への手紙10~11章を釈義することから始まります。この中で、11章1節の「信仰とは、望んでいることがらの〈ヒュポスタシス〉であり」のヒュポスタシス(ὑπόστασις)を、「実体」と解釈し(19~20ページ)、実体は確実なものであり、神への希望はこのヒュポスタシスであるとしています(25~26ページ)。真の希望は、霧のようなつかみどころのないものではないということでしょう。
この箇所を2つの日本語訳聖書で読み比べてみました。1987年出版の新共同訳は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し」となっていましたが、2018年出版の聖書協会共同訳は「信仰とは、望んでいる事柄の実質であって」と訳されており、本書の解釈に適合するものになっています。
その他、本書において印象深かったことは、「永遠のいのち」についての解釈です。現代人の多くが望むのは現在であって、永遠に生き続けることは、恵みよりも刑罰のように思われているのかもしれないとした上で、「永遠とは、いつまでも暦の日付が続くことではなく、完全な満足を感じる瞬間のようなものだと考えてみなければなりません。その瞬間、全体がわたしたちを包み、わたしたちも全体を包みます。それは無限の愛の海に飛び込むのに似ています。そのとき、時間は、過去も未来も含めてもはやなくなります」(32~33ページ)としています。私自身はこの解釈に大変魅力を感じました。
平易に読める本であるとはいえないかもしれませんが、「希望」という聖書の言葉を考えるのにふさわしい一冊として、本書をお勧めします。
■ ローマ教皇ベネディクト16世著『希望による救い』(カトリック中央協議会、2008年6月)
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