聖書の勉強会に出たっきり、行方不明となっていたカーダ(仮名)の夫は、2日後に見るも無惨な惨殺死体で発見された。なぜ彼は連れ去られ、誰が彼を殺したのかについて、カーダは今でも答えを得ていない。おそらく、彼女が答えを知ることはないだろう。(第1回から読む)
「私にイエスを紹介してくれた元上司が、私を慰めるために連絡をくれました。彼女はこう言って私を慰めてくれました。『心臓が引き裂かれるような悲しみよね。つらいことでしょう。でもねカーダ、あなたの夫は今、永遠の御国でキリストと共にいることを忘れないでほしいの』。そして私は聖書の中にある、希望の力と慰めを見いだしたのです。エペソ書6章を読み、私は知ったのです。この地上の歩みは楽園ではなく戦場であるということを。そして私は涙を拭いて、決意を新たに主にお約束しました。この道に仕え続けることを」
カーダは、神の助けと信仰、そして信者の共同体を通じて、再び喜びを見いだしたのだ。「夫のいない新しい生活で私は、困難があるにもかかわらず、幸せを見つけることができました。忠実な兄弟姉妹たちはそんな私を支えてくれたのです」
最もつらいのは夕方の時間だ。いつもなら、子どもたちが眠った後、彼女は夫と話し、二人で聖書を読んでいた。夫婦は習慣的にこの時間、一日の出来事や神の言葉が何を伝えているのかを話し合っていたのだ。そのような喜びの季節はもはや過去の思い出となってしまった。しかしそれでもカーダの信仰は決して後退しない。夫がいなくなった今でも、カーダはイエスと対話し、その関係はさらに強まっているという。
迫害のない自由な先進国に住んでいる者には、にわかに信じがたいことだが、これが厳しい迫害国の現実だ。アフガニスタンでイエスを信じるということは、日常的に、命に関わる重大なリスクを背負って生きることを意味する。しかし、カーダがそうであるように、イエスの信者たちはそれでも信仰を捨てず、堅くそれを握り締めて離さない。彼らの涙に、全能者が大いなる報いを与えてくださる日が一日も早く訪れることを祈らずにはいられない。全てを失ってしまったカーダのような同胞たちを覚えて祈ろう。
いつの日にか、誰もが自由にイエスを信じ、その信仰を告白することができるアフガニスタンになるよう、祈っていただきたい。(続く)
■ アフガニスタンの宗教人口
イスラム 99・85%
クリスチャン 0・05%
ヒンズー 0・01%
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