今回は、さかのぼって13章33~38節と、18章15~18節および25~27節を読みます。
否認を予告するイエス様
13:33 子たちよ、今しばらく、私はあなたがたと一緒にいる。あなたがたは私を捜すだろう。『私が行く所にあなたがたは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも同じことを言っておく。34 あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう。」
36 シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」 イエスはお答えになった。「私の行く所に、あなたは今付いて来ることはできないが、後で付いて来ることになる。」 37 ペトロは言った。「主よ、なぜ今すぐ付いて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」 38 イエスはお答えになった。「私のために命を捨てると言うのか。よくよく言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度、私を知らないと言うだろう。」
この箇所は、第53回で一度お伝えした、最後の晩餐の席でのイエス様と弟子たちの様子ですが、今回の箇所につながっているのでもう一度読むことにします。ここを読むと、文章の構成について思うことが一つあります。それは、33節のイエス様の言葉と、36節以下のペトロとの会話の内容がつながっていて、34~35節の「愛の戒め」は文脈に合っていなく、唐突なものであるように思えることです。
これについては、34~35節は教会を規定するものであり、教会の基準であるとして(伊吹雄著『ヨハネ福音書注解Ⅲ』93ページ参照)、後のヨハネ共同体による編集によって挿入されたとする考えもあります。
私は、最後の晩餐の席におけるイエス様の言葉ではあるものの、編集によってイエス様とペトロの会話の直前に置かれたのではないかと考えています。このイエス様とペトロの会話、そしてそこから始まるペトロの否認は、初代教会に伝えられていた重大な出来事であり、それをイエス様の「愛の戒め」と関連付ける必要があったと考えているのです。
この「愛の戒め」にある「私があなたがたを愛したように」というのは、命を捨てて人間を愛されたイエス様の十字架の愛を指しています。それを受けて、「あなたがた」つまり私たち人間が愛し合うようになるためには、まずは十字架にかけられたイエス様を愛さねばなりません。
しかし、ペトロはそれができず、イエス様との関係を否認したのです。ヨハネ福音書はそのことを伝えるために、「愛の戒め」をイエス様とペトロの会話の前に置くという編集を行い、その後のイエス様の引き渡しと並行してなされるペトロの否認を伝え、さらに21章において、ガリラヤ湖畔における復活されたイエス様の「ヨハネの子シモン、私を愛しているか」という言葉を伝えている、というのが私の見方です。
36節以下で伝えられているイエス様との会話の中で、ペトロは「あなたのためなら命を捨てます」と言っています。それにもかかわらず、イエス様が十字架にかけられるために引き渡されると、「あんな人など知らない」と言ってしまうところに、人間の愛の限界を読み取ることができます。それは、私たちの信仰の歩みの中で経験することと共通するものでしょう。
「鶏が鳴くまでに、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」。このイエス様の予告はどんなに印象深く、ペトロの心の中に、そして初代教会の人々の中に残されていたことでしょう。ちなみに、ペトロがイエス様を否認した場所には、「鶏鳴教会」と名付けられた教会が建てられています。それほどに、このイエス様の予告は印象深いものであったのでしょう。
ペトロの3度の否認
18:15 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに付いて行った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の中庭に入ったが、16 ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。17 門番の女はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではないでしょうね。」 ペトロは、「違う」と言った。18 僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
25 シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないだろうな」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。26 大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「お前が園であの男と一緒にいるのを、私に見られたではないか。」 27 ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。
イエス様が引き渡されると、ペトロは予告されていた通り、イエス様のことを3度否認します。このことは、4つの福音書全てが伝えています。しかし、ヨハネ福音書だけ、最初の否認と2度目の否認の間に、アンナスの尋問(18章19~24節)をはさんでいます。他の福音書と比べやすくするために、アンナスの尋問は前回繰り上げて取り上げ、今回は省略し、ペトロの否認の場面を連続させました。
さて、ヨハネ福音書のこの箇所をよく読んでみると、ペトロの否認の仕方が、3度ぞれぞれで異なっていることが分かります。1度目は「『違う』と言った」、2度目は「打ち消して、『違う』と言った」、3度目は「再び打ち消した」となっています。
1度目の「違う」(ギリシャ語でウーク・エイミ)より、2度目の「打ち消して」(アルネオマイ)が付いた「違う」の方がより強く、3度目にはその「打ち消した」が再び繰り返され、よりニュアンスが強くなっています。つまり、1度目よりも2度目の方が、2度目より3度目の方が、否定の度合いが強くなっているのです。
マタイ福音書の並行記事を見ると、その度合いがさらにはっきりしています。1度目は「打ち消し(アルネオマイ)」、2度目は「誓って(ホルコス)、打ち消した(アルネオマイ)」、3度目は「誓い(ホムニューオー、ホルコスよりニュアンスが強い)始めた」となっているのです。
つまり、3度の否認はその度合いがだんだんと強くなっています。初代教会ではそのことが伝承されていたため、それぞれの福音書記者がこのように書き表したのだと思います。否認、つまり罪の行為というものは、エスカレートしていくということでしょう。
とても残念な事件に関することですが、次のような話を読んだことがあります。
とある国のある非常に優秀な青年が、故郷の期待を受けて日本に留学してきました。ところが、彼は経済的にかなり困窮していたようです。日本でアルバイトが上手くいかなかったのです。お金がなくなり、食べることにも困るようになりました。
そんな彼がしたことは、コンビニでの万引きでした。それは誰にも見つからず、「成功」したようです。私が想像するに、彼はコンビニでバイトをした経験があって、そのシステムを理解していたのでしょう。盗んできたおにぎりを食べながら、彼の顔には涙と鼻水が入り混じっていたそうです。これが、彼が犯した1度目の罪でした。
彼はその後も万引きを続け、いつしかそれが当たり前の行為になってしまいます。それどころか、民家に侵入して物を盗むようなことさえするようになってしまったのです。これを、彼の2度目の罪としましょう。
彼の窃盗行為は常態化していましたが、見つかることはありませんでした。しかしある日、侵入した民家で住人とばったり出会ってしまったのです。とっさのことだったのかどうかは分かりませんが、彼はその住人を殺害してしまいます。それが彼の犯した3度目の罪でしたが、もう取り返しがつかないことになってしまいました。彼は逮捕され、起訴され、厳罰を言い渡されます。
これが、彼が獄中で書いた悔悛(かいしゅん)の手記の内容でした。罪は、最初は出来心であっても、それが常態化し、さらに重たい罪に向かってしまうことがあるということでしょう。
ペトロの3度の否認は、罪がエスカレートしていく人間の心理をよく表していると思います。罪とは、社会的な犯罪だけではありません。神様との関係において、隣人との関係において、さまざまな罪があります。
イエス様は、このペトロの3度の否認の後に、十字架にかけられました。私たちの罪のためにそれを成されたイエス様に招かれ、神様への愛、隣人への愛へと、私たちの歩みを進めさせていただきましょう。
ペトロの悔悛が伝えられていないヨハネ福音書
ペトロの否認は、全ての福音書が伝えていますが、ヨハネ福音書以外の3つの共観福音書は、3度否認することをイエス様から予告されていたことを思い出し、ペトロが激しく泣いたことを伝えています。それぞれ、「そして外に出て、激しく泣いた」(マタイ26章75節、ルカ22章62節)、「泣き崩れた」(マルコ14章72節)とあります。それは、ペトロがそこで悔悛したことを示しています。
一方、ヨハネ福音書のペトロの否認の場面では、そのようなことは伝えられていません。では、ヨハネ福音書はペトロの悔悛を全く伝えていないのかというと、そうではありません。前述したように、21章には、ガリラヤ湖畔で復活のイエス様に出会ったペトロが、教会を委託される場面が記されていますが、そこにおいて伝えられています。このことは、21章を取り上げる際に詳しくお伝えしたいと思います。(続く)
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