前回は、17章のイエス様の「父よ」という呼びかけの言葉で始まる6つの祈りのうち、最初の2つをお伝えしました。今回は、その後の「父よ」で始まる4つの祈りが伝えられている、11節b~26節を読みます。それぞれ以下の呼びかけで始まっているものです。
- 3. 11節b「聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください」
- 4. 21節「父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように・・・」
- 5. 24節「父よ、私に与えてくださった人々を・・・」
- 6. 25節「正しい父よ、世はあなたを知りませんが、私はあなたを知っており・・・」
第3の呼びかけによる祈り―弟子たちと教会のために
11b 聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください。私たちのように、彼らも一つとなるためです。12 私は彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。私が保護したので、滅びの子のほかは、誰も滅びませんでした。聖書が実現するためです。
13 しかし今、私は御もとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、私の喜びが彼らの内に満ち溢(あふ)れるようになるためです。14 私は彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。私が世から出た者でないように、彼らも世から出た者ではないからです。15 私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。16 私が世から出た者でないように、彼らも世から出た者ではありません。
イエス様の祈りは、弟子たちのための祈りとなります。それは、イエス様の昇天後にできる教会のための祈りであったといってよいでしょう。イエス様の弟子たちは、高等教育を受けた優れた人たちではありませんでした。中心となっていたのは、ガリラヤ湖の漁師たちであり、徴税人や民族主義的活動家たちでした。
その中の一人、イスカリオテのユダは、イエス様を銀貨30枚と引き換えに宗教指導者たちに引き渡すため、夜の闇の中に出て行ってしまいました。イエス様はユダのことを「滅びの子」(12節)と呼びました。しかし、ユダを呪うのではなく、「聖書が実現するため」と言われました。ユダの行為も、神様の御旨と捉えられているのです。
けれども、ユダ以外の弟子は全てイエス様のもとにとどまりました。辺縁の地ガリラヤの、高等教育を受けたわけではない、ごく普通の庶民である11人が、イエス様が神様の御もとに行かれた後に、福音を伝えていかねばならないのです。イエス様が十字架にかけられたとき、散り散りに逃げてしまう彼らが、教会の指導者になっていくのです。その弟子たちのために、イエス様は祈っておられるのです。
イエス様は、続けて次のように祈られました。
17 真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの言葉は真理です。18 私を世にお遣わしになったように、私も彼らを世に遣わしました。19 彼らのために、私は自らを聖なる者とします。彼らも、真理によって聖なる者とされるためです。20 また、彼らについてだけでなく、彼らの言葉によって私を信じる人々についても、お願いします。
この部分は、弟子たち(17~19節)と、弟子たちによって福音を伝えられた人たち(20節)に対するものですが、もっと広く、今日に至るまでの全てのキリスト教徒に対する祈りといってよいでしょう。また、ここはキリスト教信仰の核心を述べている箇所だと思います。
ここでは、「真理」という言葉の意味が問われています。私はそれを、「十字架にかけられたイエス様」と考えています。この後、イエス様はポンテオ・ピラトの尋問をお受けになりますが、ピラトがイエスに「真理とは何か」と問う場面があります(18章38節)。
イエス様はそこで何もお答えになりませんでした。しかし、その後のイエス様の行為の一つ一つが答えなのです。特に、自ら十字架を背負い、ゴルゴダに向かわれたことが、そのクライマックスといえるでしょう。それは、私たちの罪をイエス様自らが引き受けられたことを意味しています。そのことが、新約聖書が伝える「真理」という言葉の中心なのです。
17~20節の中心になっているのは、19節の「彼らのために、私は自らを聖なる者とします」だと思います。これは、動物を聖なる犠牲(いけにえ)としてささげる旧約聖書的な考え方に基づくものであり、イエス様がご自身を犠牲の動物と考えておられたということでしょう。そして、ご自身を犠牲としてささげられることこそが「真理」であり、自ら十字架を背負われたことの極意なのです。
そして、このことこそが、神様が独り子をこの世にお与えになったことの意味するところであり、父なる神様の「言葉」(17節)なのです。私たちは、十字架にかけられたイエス様を見上げ、私たちもまた自らを神様にささげ、日々罪を告白して歩んでいくときに、「恵みの下」に置かれるのです(ローマ書6章13~14節参照)。
第4の呼びかけによる祈り―教会が一つとなるために
21 父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私たちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを信じるようになります。22 あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました。私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。23 私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたが私をお遣わしになったこと、また、私を愛されたように、彼らをも愛されたことを、世が知るようになります。
第4の呼びかけによる祈りは、教会の一致のためのものです。この祈りの基となっているのは、ご自身が宣言した「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13章34節)という戒めでしょう。「私があなたがたを愛した」ということは、十字架の死によって愛を示してくださったということであり(第53回参照)、この戒めは、十字架の愛を基調とするものです。
エフェソ書2章14節には、「キリストは、私たちの平和であり、二つのものを一つにし、ご自分の肉によって敵意という隔ての壁を取り壊し」という言葉が伝えられています。「十字架を通しての一致」が、聖書のメッセージとして示されているのです。一致とは、人々が皆一色になることではありませんが、イエス様は私たちが一つとなるために、十字架にかけられたということが、祈りのこの部分からも明らかにされています。
第5の呼びかけによる祈り―キリストの体としての教会
24 父よ、私に与えてくださった人々を、私のいる所に、共にいるようにしてください。天地創造の前から私を愛して、与えてくださった私の栄光を、彼らに見させてください。
この第5の呼びかけによる祈りも教会のためのものですが、キリストと教会のより強い一体性を前提にして祈られているように思えます。両者は別物ではなく、キリストは教会の頭であり(コロサイ書1章18節)、教会はキリストの体である(第1コリント書12章27節)ということです。
そしてここは、「私に与えてくださった人々」、つまり教会に召し集められた人々が、いつもイエス様にとどまっているようにしてください、という祈りです。17章で伝えられている祈りは、これまでは「お願いします」(9、15、20節)と祈られていましたが、ここでは「してください」という、強い意志を感じる祈りとなっています。
イエス様は15章で、ぶどうの木の講話を語られ(第57回参照)、「私につながって(とどまって)いなさい」と命じられていますが、24節を読んで思い浮かんだのは、まさにあのぶどうの木です。私たちが枝としてイエス様につながり続けるならば、私たちはイエス様ご自身によって祈られているということです。
第6の呼びかけによる祈り―祈りの最後に
25 正しい父よ、世はあなたを知りませんが、私はあなたを知っており、この人々はあなたが私をお遣わしになったことを知っています。26 私は彼らに御名を知らせました。また、これからも知らせます。私を愛してくださったあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです。」
ここは、17章で伝えられている「告別の祈り」における最後の呼びかけに続く言葉です。ここには、イエス様の願いや意志の伝達はなく、独白のような言葉がつづられています。また、ここでは「知る(ギノースコー)」「知らせる(グノーリゾー)」が、以下のように5回繰り返されています。
「世はあなたを知りませんが」
「私はあなたを知っており」
「この人々はあなたが私を遣わしたことを知っています」
「私は彼らに御名を知らせました」
「これからも知らせます」
ヨハネ福音書がこれまでに伝えていたことが、ここに集約されているように思えます。神様の栄光が、神様から遣わされたイエス様によって知らされ、これからも知らされていくのです。それは、神様の愛が教会を通して世界に伝えられ、イエス様がその教会の頭として、あり続けてくださるということでもあります。
ここで、イエス様の告別の説教と告別の祈りは終わり、18章からは受難と十字架の場面になります。(続く)
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