今回は、17章1節~11節aを読みます。
17章について
17章は、イエス様の告別の祈りです。告別の祈りといえば、共観福音書ではゲツセマネの祈りが伝えられていますが、それは内容的にこの17章の告別の祈りとは相いれません。共観福音書では、苦しまれるイエス様の言葉が伝えられていますが、この17章では、イエス様に苦悶(くもん)はなく、ご自身の栄光化と弟子たちへの激励が中心の祈りが伝えられています。
少し長い祈りであるため、何カ所かに分けて伝える試みがなされているのですが、内容的に分割することは少し難しいようです。はっきりとした切れ目を持っているわけではありません。それでも、1回でまとめてお伝えすることには難があるように思えます。
そこで、この祈りの中に「父よ」という呼びかけの言葉(ギリシャ語で「呼格」といわれる格になっているもの)が6回あることに着目して、この呼びかけの言葉を基準にまとまりを作り、お伝えしたいと思います。呼びかけの言葉を列挙すると、以下のようになります。
- 1節「父よ、時が来ました」
- 5節「父よ、世が造られる前に、私が御もとで持っていた栄光で・・・」
- 11節b「聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください」
- 21節「父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように・・・」
- 24節「父よ、私に与えてくださった人々を・・・」
- 25節「正しい父よ、世はあなたを知りませんが、私はあなたを知っており・・・」
今回は、第1と第2の呼びかけを含む1節~11節aをお伝えし、次回は、第3~第6の呼びかけを含む11節b~26節をお伝えします。
第1の呼びかけによる祈り
1 イエスはこれらのことを話してから、天を見上げて言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子に栄光を現してください。2 あなたは、すべての人を支配する権能を子にお与えになったからです。こうして、子が、あなたから賜ったすべての者に、永遠の命を与えることができるのです。3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。4 私は、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
イエス様がここで語られているご自身の「栄光化」は、他の福音書やパウロ書簡で伝えられていることとは違うように思えます。ルカ福音書は、イエス様の誕生を馬小屋における出来事(2章1~7節)として伝えており、フィリピ書は「キリストは、神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の形をとり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(2章6~8節)と伝えています。
こうしたことは「キリストの卑賤(ひせん)」といわれ、新約聖書においては大切な概念になっています。「神の子がこの地上に来られ、私たちよりも貧しい歩みをされた」ということです。それ故にイエス様は、私たちの弱さを知ってくださっておられるということです。また、キリストが卑賤の道を歩まれたからこそ、神様はキリストを高く上げられたのです(フィリピ書2章9節)。
それに対して、ヨハネ福音書においては「キリストの卑賤」がほとんど伝えられていません。強いてそれに近いことを挙げるならば、「キリストの受難」であると思いますが、両者は同じではありません。そしてこの最後の祈りにおいては、受難とは逆のことと思える「栄光化」が強調されているのです。つまり、17章が伝えているのは、直前の16章33節で伝えられていた「私はすでに世に勝っている」という宣言をなさる「勝利者キリスト」なのです。
新約聖書学者のエルンスト・ケーゼマン(1906~98)の著作『イエスの最後の意志』は、この17章の記述を中心に展開がなされている書です。この書の第2章が「キリストの栄光」と題されていて、17章で強調されている「栄光化」のことがさまざまに論じられています。
それによるならば、ヨハネ的キリストの歩みは、卑賤から崇高への発展(筆者注・フィリピ書2章6~9節)では表されず(43ページ)、世と受難と死の中へ踏み込んで行かれる地上のキリストは、父との一致からはずれることはないから、その限り、卑下(筆者注・恐らく受難を意味している)と高挙は互いに結びついている(44ページ)のです。
また1節においては、受難の時がそのまま卓抜した仕方でイエスの栄光の時であることを明らかにしている(59ページ)のです。イエス様にとって、この最後の祈りの時が「受難の時」、すなわち命(プシュケー)を捨てる時なのです。10章10~11節によれば、イエス様は命(プシュケー)を捨てることによって、人々に命(ゾーエー)を与えることができるのです(第38回参照)。
イエス様はこの時、栄光化の祈りをされていて、それは実現されたのでしょうが、同時に、それは命(プシュケー)を捨てる受難の時であり、それ故に人々に永遠の命(ゾーエー)を与えることができるのです(2節)。ヨハネ福音書が伝えるイエス様は、受難と栄光化を同時に持ち合わせておられ、私たちは「勝利者キリスト」から永遠の命を与えられるのです。
3節によるならば、そこにおいて得た永遠の命(ゾーエー)とは、唯一真の神様と、神様がお遣わしになったイエス様を知ることです。それは、神様によって示され、イエス様によって表された、愛の実践ということに他なりません。13章の最後の晩餐の席から語られてきた愛の実践の戒めが、ここで「永遠の命を与える」という言葉によって閉じられます。
第2の呼びかけによる祈り
5 父よ、世が造られる前に、私が御もとで持っていた栄光で、今、御前に私を輝かせてください。6 世から選んで私に与えてくださった人々に、私は御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたは私に与えてくださいました。彼らはあなたの言葉を守っています。
7 私に与えてくださったものはみな、あなたから出たものであることを、今、彼らは知っています。8 なぜなら、私はあなたからいただいた言葉を彼らに与え、彼らはそれを受け入れて、私が御もとから出て来たことを本当に知り、あなたが私をお遣わしになったことを信じたからです。
9 彼らのためにお願いします。世のためではなく、私に与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。10 私のものはすべてあなたのもの、あなたのものは私のものです。私は彼らによって栄光を受けました。11a 私は、もはや世にはいません。彼らは世におりますが、私は御もとに参ります。
ヨハネ福音書では、「とどまる」(メノー)という言葉が繰り返し使われていることを、このコラムを通して読み取ってきました。それは、イエス様が弟子たちの内にとどまることであり、弟子たちがイエス様の愛と言葉の内にとどまることでした。またそれは、弟子たちにとっては、弟子の基本ともいえる大切なことでした。
6節の「彼ら(弟子たち)はあなたの言葉を守っています」は、「とどまる」という言葉と同義であるとみてよいと思います。弟子たちが、イエス様を通して与えられた、神様の言葉の中にとどまっているということでしょう。また、ここで弟子たちは、「(神様が)世から選んで私(イエス様)に与えてくださった人々」として伝えられていますが、この場合の「世」は良い意味で使われていると考えてよいでしょう。
それに対して、9節の「世のため」の「世」は、イエス様を受入れなかった人たちのことを指しています。イエス様の弟子たちは、そういう人たちではなく、良い意味で世から選ばれた人たち、愛の戒めを守り、イエス様がその存在によって栄光を受ける人たち(10節)、すなわち今後、キリスト共同体を形成していく人たちなのです。その弟子たちのための祈りが、この後なされていくことになります。(続く)
◇