今回は、16章16~33節を読みます。
イエス様の「戻って来る」という言葉の意味
16 「しばらくすると、あなたがたはもう私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる。」 17 そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたは私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」
18 また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」 19 イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたは私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる』と、私が言ったことについて、論じ合っているのか。
20 よくよく言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、世は喜ぶ。あなたがたは苦しみにさいなまれるが、その苦しみは喜びに変わる。21 女が子どもを産むときには、苦しみがある。その時が来たからである。しかし、子どもが生まれると、一人の人が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。
22 このように、あなたがたにも、今は苦しみがある。しかし、私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
22節に「私は再びあなたがたと会い」とありますが、イエス様のこのような「戻って来る」という言葉は、14章3節(第54回)、14章28節(第56回)にもありました。この「戻って来る」ということについて、私はこれまで「復活を意味しているのか、聖霊降臨を意味しているのかは分からない」と書いてきました。
しかし、同じ内容が記された今回の箇所を読んで、「イエス様が『戻って来る』と話されているのは、聖霊降臨を意味しているのではないか」と思うに至りました。その理由を示したいと思います。
そもそも、今回の箇所と上記2カ所を合わせた3カ所は、「弁護者を送る約束」という聖霊降臨の予告の話の前後に伝えられています。今回も、16節までの弁護者を送る約束の長い講話の後に、「またしばらくすると、私を見るようになる」「私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる」という言葉が伝えられています。文脈的には聖霊降臨と関連付けられているのです。
そして21節では、女性が子どもを産むときの痛みと、その後の喜びについて語られています。この「出産」を、聖霊によって教会が誕生した、聖霊降臨の出来事の例えと捉えることができるでしょう。イエス様の十字架という苦難を経た弟子たちが、教会の誕生によって喜ぶ時が来るということです。ここからも、聖霊降臨との関連を見いだすことができます。
「またしばらくすると、私を見るようになる」と言われているのは、生身のイエス様に再び会うということではなく、聖霊によって想起させられたイエス様と出会うということでしょう。そのようにして、天に帰られたイエス様は、弟子たちの中で生き続けたのです。それが世々の聖徒たちによって受け継がれ、今日の教会にも続いているといえるでしょう。そのことが、聖霊の大きな働きだと思います。
16章のその後の箇所についても、「聖霊が送られることによって、想起されたイエス様と出会う」ということを前提にしてお伝えします。ですから、イエス様との「再会」を復活の日とする場合の解釈とは全く違ったものになります。私はそれでよいと考えています。そもそもヨハネ福音書は、読者に多様な解釈を与える福音書です。ですので、私は今回、「聖霊による再会」を前提にしてお伝えします。
聖霊の働きによってなされること
23 その日には、あなたがたが私に尋ねることは、何もない。よくよく言っておく。あなたがたが私の名によって願うなら、父は何でも与えてくださる。24 今までは、あなたがたは私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。
25 私はこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。26 その日には、あなたがたは私の名によって願うことになる。私があなたがたのために父に願ってあげよう、とは言わない。27 父ご自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、私を愛し、私が神のもとから出て来たことを信じたからである。
前述の前提に立つと、23節冒頭の「その日には」というのは、「聖霊が送られる日には」ということでしょうか。イエス様は、聖霊が送られたなら、私の名によって何でも願いなさい、と言われているのです。実際、聖霊降臨の日に、ペトロは生まれつき足の不自由な人に向かって、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言って、その人を歩けるようにしています(使徒言行録3章1~10節)。
しかし、その後を生きる私たちにとっては、聖霊が送られる日とは1年に1度のペンテコステだけというわけではないでしょうから、「その日」というのを特定する必要もないでしょう。私たちがイエス様の内に入れられ、イエス様が私たちの内に入られた日ということでよいと思います。その日には、聖霊の働きによって、私たちは何でも願うことが可能になるのです。
「私はすでに世に勝っている」
28 私は父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」 29 弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。30 あなたがすべてのことをご存じで、誰にも尋ねられる必要がないことが、今、分かりました。これで、あなたが神のもとから来られたと、私たちは信じます。」
31 イエスはお答えになった。「今、信じると言うのか。32 見よ、あなたがたが散らされて、自分の家に帰ってしまい、私を独りきりにする時が来る。いや、すでに来ている。しかし、私は独りではない。父が、共にいてくださるからだ。33 これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」
13章以降、最後の晩餐から続く講話も、ここでいったん終了します。特に14~16章は、ヨハネ福音書の中でも一番とっつきにくい箇所ではなかったかと思います。私自身も今まで何となく避けてきたのですが、今回このコラムを書くために精読しました。その結果、この個所は、弁護者を送る約束、すなわち聖霊降臨という出来事との関連において語られていることを実感しました。
イエス様が最後に「私はすでに世に勝っている」と言われたのも、聖霊が来ることによって、この世が神の法廷に立たされ、そこにおいて「神の義」によって裁きがなされ、それによってイエス様の勝利が宣言されるということが前提となっていることを、前回お伝えしました。
イエス様はそのことを前倒しする形で、「私はすでに世に勝っている」と宣言されているのだと思います。それによって、イエス様を信じている人たちが平安を得るのです。イエス様が勝利を宣言されているのですから、私たちはそれを信じていきましょう。
実際にはこの後、イエス様は捕らえられて、そしてローマの総督ポンテオ・ピラトの前で裁きを受けます。しかし、その法廷は、実はピラトの法廷ではなく、神の法廷であったのです。イエス様は死刑を宣告されますが、実は勝利しているのです。裁かれているのは、実はイエス様ではなくピラトなのです。
ヨハネ福音書は、十字架につけられたイエス様のことを、しばしば「栄光を受けられた」と書き表していますが、それは、十字架は敗北のようでありながら実は勝利だからです。それが「勝利者キリスト」という、ヨハネ福音書の神学であろうと思います。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」というこの言葉は、父なる神が共におられることと、聖霊が送られるという約束の間にあります。イエス様のこの言葉に、依(よ)り頼んで歩んでいきましょう。(続く)
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