ヨハネ福音書は、イスカリオテのユダが闇の中に出て行ったことを13章30節で伝えた後、イエス様の講話となり、それは16章最後まで続きます。この講話は、マタイ福音書5~7章の山上の説教に比肩し得るものであり、キリスト教の歴史の中で大切にされてきたものです。今回は、その初めの部分である13章31~38節を読みます。
栄光を受けられたイエス様
33節は、36節の前に読む方が分かりやすいと思いますので、その段落に移行します。
31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受け、神は人の子によって栄光をお受けになった。32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神もご自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
ユダの退出とともに、イエス様は栄光をお受けになりました。それと同時に、父なる神様も栄光をお受けになりました。イエス様が栄光をお受けになったということは、十字架にかかられたことを指しています。そのため、この時点で「人の子は栄光を受け」とされていることから、これ以降のイエス様の言葉は、十字架上で語られたことと捉えてよいと私は考えています。
ヨハネ福音書は、他の福音書に比べると十字架上でのイエス様の言葉が少ないのが特徴です。19章26~27節の母マリアと愛弟子に対する言葉と、息を引き取る間際の「渇く」「成し遂げられた」のみです。しかし、栄光を受けられた後の言葉を十字架上の言葉と受け取ることで、多くのことを読み取ることができます。
新しい戒め
34 あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう。」
イエス様は、「私があなたがたを愛したように」と言われました。この場合のイエス様の愛とは、何を指しているのでしょうか。お伝えしていますように、この言葉は十字架上の言葉と捉えてよいものです。ですから、この場合のイエス様の愛とは、十字架上で私たちのために命をささげてくださった愛のことです。歴史上最大の愛である十字架の愛をもって、イエス様は私たちに「互いに愛し合いなさい」と言われているのです。
前述しましたように、ここから16章まではマタイ福音書の山上の説教に比肩されるものです。山上の説教は、冒頭に8つの「幸い章句」があり、それらがいわば新しい戒めとして示されていますが、ヨハネ福音書では、この「互いに愛し合いなさい」が、新しい戒めとして提示されています。
そしてこの新しい戒めは、ヨハネ書簡においても伝えられています。第1ヨハネ書3章11節、4章7、11節、第2ヨハネ書5節において、「互いに愛し合いなさい」という言葉が繰り返されています。第3ヨハネ書は直接的にこの言葉を伝えてはいませんが、巡回宣教者たちをもてなす文脈で同じ意味のことが書かれています。ヨハネ共同体は、イエス様のこの言葉をずっと大切にし続けたのでしょう。
第8回でお伝えしていますが、『旧約新約聖書神学事典』の「永遠」の項においては、黙示録を除くヨハネ文書で、今この時に「神の時や安定性に与(あずか)ること」が永遠の命を得ることである、とされています。「永遠の命」とは、「未来永劫の事柄」を指すだけではなく、「今この時の神様とのつながりにおける事柄」とも言い得るでしょう。
「互いに愛し合いなさい」は、神様からの新しい戒めであり、新しい命令です。ところで、ここで12章50節の「父の命令は永遠の命であることを、私は知っている」というイエス様の言葉を思い起こしてみましょう。これらを図式化すると、「永遠の命」=「父の命令」=「互いに愛し合いなさい」になります。互いに愛し合う歩みをすることが、永遠の命を生きることなのです。このことは、ヨハネ福音書やヨハネ書簡を読むときにとても大切です。
ヨハネ福音書の執筆目的が、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じて、イエスの名によって(永遠の)命を得るためである」(20章31節)ことを繰り返してお伝えしていますが、「永遠の命を得る」とは、「互いに愛し合う歩みをすること」であることを、ヨハネ福音書とヨハネ書簡は示しているのだと思います。
否認の予告
34~35節は、後のヨハネ共同体による挿入だと思われますので、33節はここで読むことにします。
33 「子たちよ、今しばらく、私はあなたがたと一緒にいる。あなたがたは私を捜すだろう。『私が行く所にあなたがたは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも同じことを言っておく。」 36 シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」 イエスはお答えになった。「私の行く所に、あなたは今付いて来ることはできないが、後で付いて来ることになる。」 37 ペトロは言った。「主よ、なぜ今すぐ付いて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」 38 イエスはお答えになった。「私のために命を捨てると言うのか。よくよく言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度、私を知らないと言うだろう。」
イスカリオテのユダは、イエス様を売り渡すために闇の中に出ていきました。そして、実際に実行しました。そのためユダは、キリスト教の歴史の中で裏切り者として大変な扱いを受けています。
ユダに関する書籍は数多くあります。私の蔵書だけでも、『イスカリオテのユダ』(カール・バルト著)、『イスカリオテのユダ』(成井透著)、『イスカリオテのユダ』(大貫隆著)、『ユダの謎解き』(ウィリアム・クラッセン著)、『ユダの秘密』(J・M・ロビンソン著)、『ユダとはだれか』(荒井献著)などがあります。
私が牧会する教会において、今年のイースターの祝会は、「世界のイースター」というコーナーでお話ししました。そのためにインターネットを検索していろいろ調べていたのですが、英国では「シムネルケーキ」というものをイースターに食べるとのことでした。このケーキの上には団子が乗っているのですが、その数は11個と決められているそうです。これは、「イスカリオテのユダを除いたイエス様の弟子の数」だそうです。このような感じで、ユダは現代に至るまで悪者にされています。
しかし、聖書はイスカリオテのユダだけでなく、弟子の筆頭格であったペトロの離反についても伝えています。それが「3度の否認」といわれるもので、これは全福音書が伝えています。イエス様が十字架につけられる前に、ペトロが3度もイエス様のことを知らないと言ったことです。その予告が、「あなたのためなら命を捨てます」と語るペトロ自身の言葉に続いてなされているのです。
イスカリオテのユダやペトロの行為には、私たちの真の姿を見る思いがします。しかしイエス様は、そのような私たちのために十字架にかかってくださったのです。(続く)
◇