今回は、12章20~34節を読みます。
フィリポとアンデレとギリシア人たち
20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。21 この人たちが、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとに来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。
イエス様が過越祭のため、子ロバに乗ってエルサレムに入場されたとき、そこにギリシア人たちも来ていました。そのギリシア人たちが、「イエス様に会いたい」と言って、弟子のフィリポの所に来ました。フィリポはそのことをアンデレに話し、2人は彼らをイエス様の所に連れていったと思われます。
聖書には、アンデレについて「シモン(ペトロ)の兄弟」という記載しかなく、彼がペトロの兄であるか弟であるかははっきりしません。しかし、名前の呼ばれ方の順序(マルコ福音書1章14節、2章16~18節)からすると、ペトロが兄でアンデレが弟でしょう。
ペトロとアンデレとフィリポは、ガリラヤのベトサイダの出身でしたので(ヨハネ福音書1章44節)、幼なじみであり、アンデレとフィリポは特に親しかったのかもしれません。しかし、ここでフィリポとアンデレ、そしてギリシア人たちが一緒にイエス様の所に行ったのには、別の意味があるようです。
12弟子の中でフィリポとアンデレは、ギリシア名だけで知られている唯二の弟子でした(G・R・オディ著『NIB新約聖書注解5 ヨハネによる福音書』301ページ)。ベトサイダというガリラヤの町に住んでいたときにギリシア名で呼ばれていたということは考えにくいでしょうから、彼らのギリシア名とは、後代の初代教会における呼び名でありましょう。
つまり、ギリシア名のみが知られていた弟子たちと、ギリシア人たちが連れ立ってイエス様の所に行ったということは、後代の教会の在り方を指し示しているものといえそうです。イエス様は、「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」(マタイ福音書28章19節)と言って天に帰られました。イエス様の昇天後、福音は全ての民、すなわちユダヤ人だけでなく異邦人にも伝えられていきました。
ギリシア人たちがギリシア名の弟子たちと共にイエス様の所に行ったということは、そういう異邦人伝道の方向性を指し示しているのです。ちなみに、パンのしるしの時(6章1節以下)も、フィリポとアンデレが、パンと魚の分け与えの主導者となっており、そこにも何かの意味があるのかもしれません。
ギリシア人たちが過越祭の時にイエス様に会いに行ったのは、新しい時代の新しいメシアを礼拝するためであったのでしょう。イエス様はそれに対して、そのメシアとは何なのかということをお答えになっているように思えます。
地に落ちる一粒の麦
23 イエスはお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。24 よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。25 自分の命(プシュケー)を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命(プシュケー)を憎む者は、それを保って永遠の命(ゾーエー)に至る。26 私に仕えようとする者は、私に従って来なさい。そうすれば、私のいる所に、私に仕える者もいることになる。私に仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
新しいメシアを求めてやって来たギリシア人たちに対して、イエス様はご自身を麦の粒としてお話しになりました。麦の粒が地に落ちることによって多くの実を結ぶように、メシアは死ぬことによって人々に新しい命(終わりのない命を意味するゾーエー)を与える存在なのです。それが、自分の所に来たギリシア人たちへの答えでありました。
その新しい命を受けた者は、この世の命(限りある命を意味するプシュケー)にとどまるのではなく、神様の命がその人に宿り、その人も神様と共に歩むことになります。一粒の麦が地に落ちることによって、人々が神様とつながり、実を結ぶことになるのです。
天からの声
27 「今、私は心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、私をこの時から救ってください』と言おうか。しかし、私はまさにこの時のために来たのだ。28 父よ、御名の栄光を現してください。」 すると、天から声が聞こえた。「私はすでに栄光を現した。再び栄光を現そう。」 29 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。
イエス様に会いに来ていたギリシア人たちは姿を消していて、イエス様は再びエルサレムの群衆の中に身を置かれます。群衆たちはラザロの復活を見て、「この人こそ新しい王である」と考え、イエス様のエルサレム入場を歓呼の声で迎えたのです。しかし、イエス様が自分を麦の粒にたとえられ、それが地に落ちて死ぬということを話していたので、自分たちの思惑とに齟齬(そご)を感じるようになっていたのではないかと思います。
イエス様はそんな中で、「私をこの時から救ってください」と祈られました。この祈りは、共観福音書においては「ゲツセマネの祈り」または「オリーブ山の祈り」(「ルカ福音書を読む」第48回)として伝えられている祈りと同じものであるといわれています。
ヨハネ福音書のみが特徴的に伝えていることは、「私はすでに栄光を現した。再び栄光を現そう」という天からの声があったとされていることです。しかし、群衆にはその声が理解できず、「雷が鳴った」「天使がこの人に話しかけた」などと誤解されてしまいます。
質問に対する読者が見いだすべき答え
30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、私のためではなく、あなたがたのためだ。31 今こそ、この世が裁かれる時。今こそ、この世の支配者が追放される。32 私は地から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう。」 33 イエスは、ご自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。
34 すると、群衆は言葉を返した。「私たちは律法によって、メシアはいつまでもおられると聞いていました。それなのにあなたは、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とは誰のことですか。」
イエス様は、誤解をしたユダヤ人たちに対して、自分は十字架にかけられ、そしてそこで命を捨てるという言葉を繰り返されます。これは、ギリシア人たちがやって来たときに、「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われたことにつながっています。栄光を受けるということは、麦の粒が地に落ちることであり、イエス様が命を捨てることを意味しています。
ユダヤ人たちには、政治的な王、メシアとして、「ホサナ」と歓呼をもって迎えたイエス様に対する思いを捨てることはできなかったようです。ですから、「メシアはいつまでもおられると聞いていました」と、メシアの建てる国の永劫性を持ち出したのです。これは、旧約聖書に起因する思想です。
そして、イエス様に対して2つの質問を出します。1つ目は、「なぜ『人の子は上げられなければならない』と言うのか」というものでした。これは、3章14節の「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」と語られたイエス様の言葉を受けているのかもしれません。この質問はつまり、「人の子、言い換えるならばメシアは、なぜ死ななければならないのか」という質問です。
2つ目は、「『人の子』とは誰のことか」というものでした。私は、これは恐らく「あなたは本当にメシアなのか」という質問ではないかと考えています。ラザロを復活させるなど多くのしるしを行ったあなたに、私たちは政治的メシアの期待をかけたが、そうではないとすると、本当にあなたはメシアなのか、ということです。
イエス様はこの後、この質問に答えていません。これはイエス様の裁判の時に、ピラトが「真理とは何か」(18章38節)と質問したのに答えなかったのと同じです。しかし、ピラトの質問の後、イエス様は十字架で息を引き取るまでの全て過程によって、「真理とは何か」という質問にお答えになったのだと思います。
ここでも、「なぜ人の子は上げられなければならないのか」「あなたは本当にメシアなのか」という質問に対する答えは、十字架の死に至るまでの全ての出来事を通して、私たちが見いだしていくものなのかもしれません。(続く)
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