今回は、11章36~44節を読みます。
36 ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。37 しかし、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。38 イエスは、再び憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石で塞がれていた。
39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、もう臭います。四日もたっていますから」と言った。40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光を見ると言ったではないか」と言われた。
41 人々が石を取りのけると、イエスは目を上げて言われた。「父よ、私の願いを聞き入れてくださって感謝します。42 私の願いをいつも聞いてくださることを、私は知っています。しかし、私がこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたが私をお遣わしになったことを、彼らが信じるようになるためです。」
43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
「今」復活と永遠の命が与えられるということ
前々回、マルタは「終わりの日の復活」は信じていたが、イエス様は「私は復活であり、命(終わりのない命を意味する「ゾーエー」)である」と言われ、復活と永遠の命を与えることを「今」実現される方だとお伝えしました。その後マルタは、「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じています」と言うのですが、彼女はその内容をよく理解した上で、このメシア告白をしたのでしょうか。私には、どうもそこは微妙なところであるように思えます。
今回の箇所は、「ラザロの復活」のお話の中核である、まさにラザロが復活する場面ですが、ここでもマルタは、「主よ、もう臭います。四日もたっていますから」と、イエス様に対して懐疑的なことを言っています。しかし、ラザロが復活したのを見たことで、イエス様が「今」復活と永遠の命を与えてくださる方であることを深く理解したことでしょう。
マルタのそれに対する反応は、12章1節以下のマリアの塗油のシーンで明らかになっています。マリアの行為に隠れがちですが、ここは見逃せないところです(山口里子著『マルタとマリア』244~245ページ参照)。マルタは「主の晩餐」の食卓で「奉仕」(ギリシャ語はディアコネオー)をしているのです。これは、マルタがイエス様をメシアとして伝えていく働きに参与していることであり、マルタの献身を意味しています。
私には、マルタはイエス様にメシア告白をしたものの、その信仰はいささか揺れ動くものであったように思えます。それはあたかも、ペトロがイエス様に対して「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16章16節)と言った後に、なお否認の行為をしてしまうのと同様です。しかしマルタは、イエス様が自分たちの兄弟ラザロをよみがえらされたのを見て、「今この時の復活と永遠の命」を確信したのだと思います。
マルタはもともと、「終わりの日の復活」は信じていました。けれどもイエス様は、自身を信じる者には、「今」復活と永遠の命を与えると言われたのです。そして、その言葉をもとに行われたのが、ラザロを復活させる行為であったのです。
『罪と罰』におけるラザロの復活
そうはいうものの、このことは分かりにくいのではないかと思います。私も「今この時の復活と永遠の命」とはどういうことなのかをずっと問うてきましたし、現在も問うています。そんな私に示唆を与えてくれたのは、フョードル・ドストエフスキーの小説『罪と罰』でした。この小説の中で「ラザロの復活」のお話が取り上げられていて、それを読むことが、「今この時の復活と永遠の命」を考えるに当たって、最も適切ではないかと考えています。それで今回は、新潮文庫から出版されている工藤精一郎訳の『罪と罰』の内容をもとに、私にできる限りの範囲でご紹介したいと思います。
『罪と罰』の主人公は、ラスコーリニコフという青年です。彼は、「凡人と非凡人の論理」というものを持っていました。それは、「人間は凡人と非凡人に分けられ、凡人は服従の生活をしなければならなく、また法律を踏み越える権利はない。ところが、非凡人は、もともと非凡な人間であるから、あらゆる犯罪を行い、勝手に法律を踏み越える権利を持っている」というものでした(工藤精一郎訳『罪と罰(上)』544ページ)。
そして、「自分は非凡人の方に属するので、貧乏人の生き血を吸うしらみのような高利貸の老婆を殺して、その金を自分の才能に使うことが許されている」と考え、高利貸しの老婆アリョーナを、おので殺害してしまいます。何ともおぞましい内容です。
ところが、この殺害をアリョーナの妹リザヴェータに見られてしまい、成り行き上、彼はリザヴェータをも殺害してしまいます。事件後に、彼は大変な自己分裂に陥りますが、娼婦(しょうふ)のソーニャに全てを告白しようと決意して、彼女の部屋に行きます。
こともあろうに、ラスコーリニコフが殺害したリザヴェータが持ってきてくれた新約聖書が、ソーニャの部屋にありました。ラスコーリニコフはソーニャに、「ラザロの復活」を読んでくれと頼み、ソーニャはそれに同意して、ヨハネ福音書11章1節以降を読み聞かせます。
今回の箇所は、そのクライマックスといえるでしょう。ソーニャが37節を読んだところで、ラスコーリニコフはソーニャを見やります。彼女は熱病にかかったようにがくがくと震えていました。そして偉大な勝利の感情が彼女を捉え、その声が金属音のようにさえ渡ります。
ソーニャはこの箇所を暗記していて、「盲人の目を開けたこの人も」というところで少し声を落とし、信じないユダヤ人たちの疑惑と非難と誹謗を、激しい熱を込めて伝えました。ここから先は、小説の原文をそのまま転載します。
彼らはもうじき、一分後には、雷にうたれたようにひれ伏し、号泣し、信じるようになるのだ・・・《彼も、彼も——信じない盲者だ、——彼ももうすぐこの先を聞いたら、信じるようになる、そうだ、それにきまっている! もうじき、もうじきだ》こう思うと、彼女は喜びがもどかしくてがくがくふるえた。
《イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた。それは洞穴(ほらあな)であって、そこに石がはめてあつた。イエスは言われた、「石をとりのけなさい」 死んだラザロの姉妹マルタが言った。「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」》
彼女は四日という言葉に力をこめて読んだ。《イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」 人々は石をとりのけた。すると、イエスは目を天に向けて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞きくださったことを感謝します。あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれてくださることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」 こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。すると死人は》
(彼女は自分がその日で見たように、感激に身をふるわし、ぞくぞくしながら、勝ちほこったように声をはりあげて読んだ)《手足を布でまかれ、顔を顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」
マリヤのところにきて、イエスのなさったことを見た多くのユダヤ人たちは、イエスを信じた》 彼女はその先は読まなかった、読むことができなかった。彼女は聖書をとじて、急いで立ちあがった。「ラザロの復活はこれでおわりです」ととぎれとぎれにそっけなく囁(ささや)くと、彼女は顔をそむけて、彼を見るのが恥ずかしいように、目をあげる勇気もなく、じっと身をかたくした。熱病のようなふるえはまだつづいていた。
ひんまがった燭台の燃えのこりのろうそくはもうさっきから消えそうになっていて、不思議な因縁でこの貧しい部屋におちあい、永遠の書を読んでいる殺人者と娼婦を、ぼんやり照らしだしていた。(工藤精一郎訳『罪と罰(下)』110~112ページ)
この後、ラスコーリニコフは自首をし、2人の命を奪った割には寛大な、シベリア流刑8年という刑を言い渡されます。そして、最後にシベリアの地において「ラザロの復活」のお話を回想することで、小説は終わります。著者ドストエフスキーの信仰と、ヨハネ福音書に対する理解が表されているのが、この小説であると思います。
つまり、ドストエフスキーは、「ラザロの復活」のお話を通して、娼婦ソーニャと殺人者ラスコーリニコフに、復活と終わりのない永遠の命を与えているのです。ソーニャが読み聞かせを終えたところで2人を照らしているろうそくのともしびは、「私は世の光である」と言われたイエス様の、その光を表しているのでしょう。
今回は、小説『罪と罰』の紹介を中心に執筆しました。まだお読みになっていない人には、ぜひお薦めしたい本です。長編小説ですので、「ラザロの復活」のお話の部分を中心にした読み方でもよいと思います。イエス様が与えてくださる「今この時の復活と永遠の命」を考えるには有益な書だと思います。(続く)
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