今回は、11章28~35節を読みます。
マリアへの耳打ち
28 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。29 マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。30 イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。31 家でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に行って泣くのだろうと思い、後を追った。
前回お伝えしましたが、イエス様に対して「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じています」という信仰告白をしたマルタは、一旦家に戻りました。そこには、マルタとは行動を共にせず、家で待っていた姉妹マリアと、兄弟ラザロが死んだことでマリアを慰めに来ていたユダヤ人たちがいました。
マルタは、他のユダヤ人たちに聞かれないように、イエス様が呼ばれていることをマリアに耳打ちしました。これを読みますと、マリアがイエス様の話を一対一で聞いていたルカ福音書の記事(「ルカ福音書を読む」第23回参照)をほうふつとさせられます。
私は、マルタはその時のことを思い出していたのではないかと考えています。つまり、今回は自分が先に行うことになったメシア告白を巡るイエス様との一対一のやり取りを、マリアにもしてほしかったのではないかということです。マリアがイエス様のおられる場所に行く際に、そこに集まっていたユダヤ人たちもぞろぞろと付いて行ってしまえば、それはかなわなくなってしまいます。
ですから、マリアにそっと行動してほしかったのでしょうが、マリアは居ても立ってもいられないといった様子で、そそくさと立ち上がってしまいます。結果的にマルタの願いはかなわなかったのですが、私にはマリアのこの姿勢は、彼女のイエス様に対する信仰心を表しているように思え、良い印象を受けています。
しかし、マリアの行動を見たユダヤ人たちは、マリアがイエス様の所に行くとは思わず、墓に納められているラザロの所に行くのであろうと思ってしまい、マリアに付いて行ってしまうことになります。もし、マリアが一人でイエス様の所に行けたならば、マルタと同じような信仰告白がなされたのかもしれませんが、そうならなかったために、塗油というマルタとは別の形での信仰告白がなされることになります。
寡黙なマリア
32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足元にひれ伏して、「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
イエス様の所に着いたマリアは、その足元にひれ伏します。これは礼拝行為を意味します。マリアがイエス様に語った言葉は、マルタがイエス様の所に着いたときに語った言葉と同じです。それは、マリアもまたイエス様にラザロを復活させることまでは期待していなかったともいえるかもしれませんが、この後にマルタと同じようなメシア告白をすることを予感させるともいえるでしょう。
このように、マリアの言葉はマルタのそれと同じだったのですが、マリアが言葉を発するのは、「ラザロの復活」のお話ではここだけです。このマリアによって、ラザロの復活後に、塗油という大事なメシア告白がなされるわけですが、そこにおいてもマリアは沈黙しています。マルタが口でメシア告白するのに対して、マリアは行為によってメシア告白しているのです。
ちなみに、ルカ福音書でもマルタの発言は伝えられていますが、マリアの発言は伝えられていません。新約聖書を通して、マリアは寡黙な女性として伝えられているのです。マルタとマリアは、後の初代教会で活躍した姉妹であるといわれていますが、初代教会においても、マリアは寡黙に信仰する女性であったのかもしれません。
涙を流されたイエス様
33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、憤りを覚え、心を騒がせて、34 言われた。「どこに葬ったのか。」 彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。35 イエスは涙を流された。
ここは、人としてこの世に来られたイエス様の姿が具現されていて、とても印象的な箇所です。しかし、神学的な意味合いが含有されている箇所でもあります。
イエス様がとても情動的になられている様子が伝えられていますが、33節についてはジャン・カルヴァンの注解が的を射ていると思いますので、その一部を掲載します。
(アウグスティヌスの注解を示した後)しかし(わたしの考えでは)次の単純さの方が、聖書にもっと合致するものだろう。神の子は、わたしたちの肉体をまとった時、同時にわたしたちの人間的な諸情念もすすんでその身にまとった。だから、罪以外の点では、かれはその同胞たちといささかも異なるところはなかった、と。このように言って、わたしたちは、キリストの栄光を少しもそこなうことにはならない。(『カルヴァン新約聖書注解Ⅳ ヨハネ福音書(下)』382ページ)
カルヴァンによるならば、イエス様は「罪がなかった」こと以外は、私たちと同じように、喜怒哀楽をお持ちであったのです。エルサレム神殿で商売をする人たちに怒りを発したのは、その一例です。このマリアたちとの場面でも、イエス様は憤りを表されていますが、ではなぜ憤ったのかということになりますと、諸説があるようです。
私は、33節は、38節の「イエスは、再び憤りを覚えて、墓に来られた」と共に、35節の「イエスは涙を流された」を囲い込んでいるのではないかと考え、イエス様がラザロに対する死の支配について「憤り、涙を流す」という、人間としての情動を率直に表したと捉えています。
イエス様は、ラザロが復活することを既に弟子たちやマルタに伝えていましたが、復活させるのは神様であり、人間としてのイエス様は、ラザロの死に対する感情を最大限に表したということなのだと思います。
旧約聖書のコヘレト書7章2節に、「弔いの家に行くのは酒宴の家に行くにまさる。そこには、すべての人間の終わりがある。生きる者はそれを心に留めよ」とありますが、私たちが葬儀に参席して、故人への悲しみなどの感情を表出させることは、私たちが悲しみから「復活」するためにも、故人が私たちの心の中に「復活」するためにも、必要なことであると思います。イエス様はそれをなさったのだと考えています。
ラザロが葬られた場所を聞いた後、イエス様は涙を流されました。前述したように、この箇所(35節)は「憤りを覚え」(33節、38節)に囲い込まれています。このような書き方を「インクルージオ(囲い込み)構造」といい、中心部にはその場面の最も重要なことが来ます。ですから、「涙を流された」が、イエス様の情動の中で最も大事なことなのだと思います。
しかし、単にセンチメンタルな読み方にならない方が良いとも思います。これは、パウロが「泣く者と共に泣きなさい」(ローマ書12章15節)と書いたことの元となっている出来事でしょう。そして、ヘブライ書5章7節に、「キリストは、人として生きておられたとき、深く嘆き、涙を流しながら、自分を死から救うことのできる方に、祈りと願いとを献(ささ)げ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」と書き記されたのも、ラザロの死を嘆いて人々に共鳴し、死からの復活を祈ったイエス様の姿が伝えられていたからだと思います。
今日2月14日は灰の水曜日で、この日からレントに入ります。ゲツセマネで祈っておられたイエス様の姿を偲び、私たちもまた、人々に寄り添える者とさせていただけるように、祈ってまいりたいと思います。(続く)
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