今回は11章1~16節を読みます。
「塗油というメシア告白」が主題として提示される
1 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロと言った。2 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足を拭った女である。
前回お伝えしたように、この「ラザロの復活」のお話は、人々の心の中に存在していた洗礼者ヨハネが、生前のイエス様の最後で最大のしるしを指し示すことから始まります。洗礼者ヨハネは、生涯を通して、またその死後も、イエス様を指し示した存在であったのです。
また、第2回でお伝えしましたが、洗礼者ヨハネは「私はメシアではない」と証言した預言者でした。これは、洗礼者ヨハネがこのことを積極的に明らかにし、真のメシアはこの後に来るのだということを示したのだといえましょう。前回取り上げた場面で、洗礼者ヨハネが人々の心の中に登場したことによって、その後の場面で真のメシア告白がなされていくことをも予感させます。
実は「ラザロの復活」のお話は、その全体が「メシア告白」を主題としているお話なのです。人々の心の中に生きていた「私はメシアではない」と証言していた故人、洗礼者ヨハネの出現は、生前のイエス様の最大のしるしであるラザロの復活の予兆であるとともに、最大にドラマチックなメシア告白がなされることの予兆でもあったのです。
そのように考えますと、この出だしの部分において、「メシア告白」という主題が提示されていると考えられるでしょう。最初にマリアとマルタとラザロという登場人物が紹介されますが、その後に「このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足を拭った女である」という一文が記されています。
マリアがイエス様に香油を塗ったこと、つまり「塗油」については、12章1~8節で伝えられており、その前の11章2節で分離されるように二重に記されていることには、ちょっとした違和感を持ちます。しかしこの記述が、「ラザロの復活」のお話の主題を提示するためと考えるならば、しっくりと受け取れるのではないでしょうか。
マリアが「塗油」を行ったということは、言うならば油が注がれたということであり、それは「イエスはメシア(油を注がれた者の意)である」ということの象徴的行為に他なりません。「塗油」はメシア告白なのです。ヨハネ福音書は、ここでこのようにして主題の提示を行い、そこから「ラザロの復活」というお話を展開させていると考えるのが、自然であるように思います。
マルタとマリアとラザロを愛しておられたイエス様
その兄弟ラザロが病気であった。3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。4 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」 5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
6 ラザロが病気だと聞いてから、なお二日間同じ所に滞在された。7 それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」 8 弟子たちは言った。「先生、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」
9 イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。10 しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」 11 こうお話しになり、また、その後で言われた。「私たちの友ラザロが眠っている。しかし、私は彼を起こしに行く。」
主題の提示に続いて、イエス様が3人のきょうだいを愛しておられたことが伝えられています。ここは重要なところです。それはイエス様と3人の関係にとどまらず、イエス様と私たちの関係、「イエス様が私たちを愛してくださっている」という、私たちがイエス様をメシアと告白する動機につながるからです。
イエス様はその時、ヨルダン川の向こう岸、つまりユダヤでない所に滞在していたのですが、「もう一度、ユダヤに行こう」と言われました。これは、3人が住んでいた村であるエルサレムの隣のベタニアに行くということですが、そこに行けば、イエス様を石で打ち殺そうとしたユダヤ人たちに再び出会う可能性があるのです。
それでもイエス様は、ご自身の命を差し出す覚悟でベタニアに行くことを決め、「彼(ラザロ)を起こしに行く」(11節)と言われたのです。この点も、「ラザロの復活」のお話の重要なところです。「ラザロの復活」のお話は、イエス様が十字架で命をささげ、私たちに新しい命を与えてくださることの予兆ですが、「彼(ラザロ)を起こしに行く」ということは、死んだラザロをよみがえらせることだけでなく、私たちに新しい命を与えるということをも意味しているのです。
イエス様がラザロを起こすために、命を差し出してベタニアに行かれようとしたことは、私たちに命を与えるために、ご自身の命を差し出すことを意味しているのです。それは、闇から光を生み出すことです。9節の「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない」は、その光を示唆しており、光である新しい命の中に招き入れられることを意味しているのだと思います。
弟子たちの無理解
12 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。13 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。14 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。15 私がその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」 16 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「私たちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
イエス様が弟子たちに、「ラザロが眠っている」と告げたことは、ラザロが死んだことを意味していたのですが、弟子たちはそれが分かりませんでした。病の回復のために、睡眠を取っているのだと思ったのでしょう。だとすれば、危険を冒してユダヤに行く必要はありません。「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」という言葉には、弟子たちの「ユダヤに行って、危ない目に遭いたくない」という気持ちが透けて見えます。
イエス様は、ラザロが死んだことをはっきり告げます。しかしそれでも、弟子たちは理解できないのです。16節のトマスの言葉には、イエス様がこれから何を起こすのかということよりも、自分たちの行く末のことしか頭にない様を感じます。「一緒に死のうではないか」は、ラザロの死と、イエス様が打ち殺されるかもしれないということと、自分たちも巻き込まれて殺されてしまうかもしれないということが、一緒くたになってしまっているが故に出た言葉だと思います。
このように、ヨハネ福音書においてトマスは無理解な弟子として伝えられています。しかしそのトマスも、復活したイエス様に出会い、「私の主よ、私の神よ」(20章28節)と告白することになるのです。(続く)
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