今回は、1章19~34節を読みます。
「私はメシアではない(エゴー・ウーク・エイミ・ホ・クリストス)」証言
19 さて、ヨハネの証しはこうである。ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねさせたとき、20 彼は公言してはばからず、「私はメシアではない」と言った。
前回、ヨハネ福音書は、①「イエスは神の子メシアであると信じるため」、②「信じて、イエスの名によって命(終わりのない命を意味するゾーエー)を得るため」という2つの執筆目的を持っている、とお伝えしました。本コラムでは、この点に着目して連載を進めていきたいと思います。
ヨハネ福音書は、これらの執筆目的を果たすため、イエス様の「私は~である / エゴー・エイミ~」という言葉をたくさん伝えています。例えば、11章25節では、ラザロの姉妹であるマルタに対し、イエス様が「私は復活であり、命(ゾーエー)である」と語ったことが伝えられています。
イエス様のこの言葉に対するマルタの応答は、「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じています」(11章27節)でした。マルタのこの言葉は、マルタがイエス様をメシアと告白することによって、聖書の向こう側にいる読者に対しても、同じ告白をすることを求め導いているのです。
ヨハネ福音書では、「私は~である」というイエス様の言葉と、「あなたはメシアです」と告白する登場人物たちの言葉が折り重なって伝えられています。これによって、それを読む読者もまた、イエス様をメシアと信じ、その名によって命(ゾーエー)を得させられ、世を歩んでいくように導かれるのです。
一方で、イエス様ご自身が「私は~である」と言うことによって、ご自身がメシアであることを伝えているお話もあります。4章のサマリアの女性との会話において、女性が「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています」と言ったことに対し、イエス様は「私が、(それ=メシア)である」(ギリシャ語原文は「私が である / エゴー エイミ」のみで、「それ」という語は記されていない)と答えています。
洗礼者ヨハネが、「私はメシアではない / エゴー・ウーク(否定詞)・エイミ・ホ・クリストス」と証言していることは、上記のイエス様の言葉に対応しています。洗礼者ヨハネの「私はメシアではない」という発言を強調することによって、ヨハネ福音書は「イエス様こそがメシア、神の子キリストである」ということを伝えようとしているのです。
第2イザヤ書の引用
21 彼らがまた、「では、何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「そうではない」と言った。さらに、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「違う」と答えた。22 そこで、彼らは言った。「誰なのですか。私たちを遣わした人々に返事ができるようにしてください。あなたは自分を何者だと言うのですか。」 23 ヨハネは言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ者の声である。」
洗礼者ヨハネが「私はメシアではない」と答えると、ユダヤ人たちは「では、何ですか。あなたはエリヤですか」「あなたは、あの預言者(モーセを指しているといわれます)なのですか」と聞き返しました。洗礼者ヨハネは、「そうではない」「違う」と答え、いずれも否定しました。
ユダヤ人たちの「あなたは自分を何者だと言うのですか」というさらなる問いに対し、洗礼者ヨハネは旧約聖書のイザヤ書40章3節「呼びかける声がする。『荒れ野に主の道を備えよ。私たちの神のために、荒れ地に大路をまっすぐに通せ』」を引用し、自身は「荒れ野で叫ぶ者の声である」と答えました。
この言葉は、他の全ての福音書でも伝えられています。ただ、他の福音書は、それぞれの福音書記者がそのように伝えているのに対し、ヨハネ福音書では、洗礼者ヨハネ自身がそのことを語ったと伝えています。
ところで、イザヤ書40章~55章は、イザヤ書の中でも「第2イザヤ書」と呼ばれている箇所です。39章までは、紀元前8~7世紀にエルサレムで活動していた預言者イザヤによるものとされています。一方、第2イザヤ書と呼ばれる40~55章は、多くのユダヤ人がバビロンで捕囚とされていた紀元前6世紀に、そのバビロンで活動していた無名の預言者によるものとされているのです。
捕囚の民となっていたユダヤ人たちは、祖国に帰りたかったでしょうが、それをなすことができませんでした。しかし、神様は彼らが捕囚とされていたある時期に、この無名の預言者を通して、「あなたがたは祖国に帰れる」と約束されたのです。バビロンとエルサレムの間にある広大な荒れ野に、「ユダヤ人たちが帰還するための道が備えられる」と預言しているのが上記の聖句です。
それは、人間と神様の間に広がっている荒れ野に道ができるという約束でもありました。そして時代を経て、洗礼者ヨハネが、自身がその役割を果たす者であると語ったのです。イエス様がこの世に来られたことは、人間と神様の間に広がっている荒れ野に、道が完成されたということであったと思います。洗礼者ヨハネは、自分はその道備えをする者であるということを、第2イザヤ書を引用して語ったのです。
洗礼者ヨハネのメシア告白
24 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。25 彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアではなく、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼(「せんれい」の他、「バプテスマ」と読んでも差し支えありません)を授けるのですか」と言うと、26 ヨハネは答えた。「私は水で洗礼を授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられる。27 その人は私の後から来られる方で、私はその方の履物のひもを解く値打ちもない。」 28 これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニア(筆者注・ラザロとその姉妹たちが住んでいたベタニアではありません)での出来事であった。
29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。30 『私の後から一人の人が来られる。その方は私にまさっている。私よりも先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことである。31 私はこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、私は、水で洗礼を授けに来た。」
32 またヨハネは証しして言った。「私は、霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。33 私はこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるようにと、私をお遣わしになった方が私に言われた。『霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である。』 34 私はそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
お伝えしていますように、ヨハネ福音書は、登場人物のメシア告白を繰り返し伝えることによって、読者をメシア告白へ導く書です。ここでは、この福音書で初めて、洗礼者ヨハネによって、登場人物のメシア告白が伝えられています。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」「この方こそ神の子である」といった証言が、その告白です。
予定としては、これから約1年間、本コラムを連載しますが、登場人物たちのメシア告白がどのようになされているのかということに関心を寄せながら、執筆を進めていきたいと思います。(続く)
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