今回は、1章35~51節を読みます。
どこに泊まっておられるのですか
35 その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と共に立っていた。36 イエスが歩いておられるのに目を留めて言った。「見よ、神の小羊だ。」 37 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。38 イエスは振り返り、二人が従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。
彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、39 イエスは、「来なさい。そうすれば分かる(岩波訳聖書では「来なさい。そうすれば見るだろう」)」と言われた。そこで、彼らは付いて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。
洗礼者ヨハネが2人の弟子と共に立っている場面から、この日の出来事は始まります。2人のうちの1人は、イエス様の12弟子となったアンデレであることが、40節で明らかになります。
アンデレと一緒にいたもう1人の弟子は誰でしょうか。ヨハネ福音書には、13章23節以下に「イエスの愛しておられた弟子」がしばしば登場します。この人については、ゼベダイの子ヨハネであり、ヨハネ福音書の著者であるともいわれていますが、ここに登場する洗礼者ヨハネのもう1人の弟子は、このヨハネであるという説があるようです(伊吹雄著『ヨハネ福音書注解Ⅰ』99ページ)。
洗礼者ヨハネ、アンデレ、もう1人の弟子の3人が立っていると、そこにイエス様が登場し、洗礼者ヨハネは前日と同じように「見よ、神の小羊だ」と言います。彼の2人の弟子たちはその言葉を聞いてイエス様に従うのですが、ここにも、ヨハネ福音書の執筆目的の一つである「イエスは神の子メシアであると信じるため」(21章31節)ということが示されていると思います。2人の信仰に読者を注目させているのです。
ヨハネ福音書では、洗礼者ヨハネはここでいったん退場し、イエス様の言葉が初めて伝えられます。アンデレともう1人の弟子に対する「何を求めているのか」という言葉がそれでした。2人はイエス様に、「どこに泊まっておられるのですか」と聞き返します。ギリシャ語の「メノー」という動詞が、聖書協会共同訳や新共同訳では「泊まって」と翻訳されていますが、これは「とどまって」と翻訳した方が良いと思います。
イエス様がどこに「とどまっているのか」という設問は、その日の出来事に関するものではなく、ヨハネ福音書全体に関わる根源的なものなのです(前掲書98ページ)。それは、15章10節の「私が父の戒めを守り、その愛にとどまっている(メノー)」を答えに持つ設問なのです。
そして、続く「その(エケイノス)日は、イエスのもとに泊まった」の「その日」も、14章20節の「かの(エケイノス)日には、私が父の内におり、あなたがたが私の内におり」のように、「かの日」と訳し、「かの日には、イエスのもとにとどまった」と翻訳した方が良いと思います(前掲書98~99ページ)。
そうしますと、「午後四時ごろのことである」も、単に時間を指しているというよりも、もっと本質的なことであるように思えるのです。午後4時とはどんな時でしょうか。新約聖書の時間は、ローマ帝国の時間制度が使用されており、昼間は日の出から日の入りまでを12等分しています(11章9節「昼間は十二時間あるではないか」参照)。
そのため、1時間は、夏至で77分、冬至で44分と、1年のうちでも長さが違っていました。午後4時はギリシャ語で10を意味する言葉で、日の入りの2時間前ということです。つまり、夕暮れということなのです。では、ユダヤ人にとって夕暮れとはどういう時なのでしょうか。
旧約聖書の出エジプト記12章1~13節に過越祭の起源が記されていますが、5~6節に「あなたがたの小羊は欠陥のない一歳の雄の小羊でなければならず、羊か山羊の中から一匹を選ばなければならない。あなたはそれを、この月の十四日まで取り分けておき、夕暮れにイスラエルの会衆は皆集まってそれを屠(ほふ)る」とあります。夕暮れは、ユダヤ人にとっては過越祭に小羊を屠る時なのです。
第1コリント書5章7節に、「キリストが、私たちの過越の小羊として屠られたからです」とあるように、イエス様は過越の小羊です。イエス様が十字架上で息を引き取ったのは午後3時過ぎでした(マルコ15章33~37節)。過越の小羊が屠られる時、すなわち夕暮れに息を引き取られたのです。
「午後四時ごろのことである」というのは、アンデレともう1人の弟子は、小羊が屠られる出来事に対して、そこにとどまったということではないかと私は考えています。つまり、2人がそこにとどまったということは、イエス様の十字架という出来事に生涯身を置いたということではないかと思うのです。
「かの日には、イエスのもとにとどまった」という言葉は、その日限りの出来事に関してではなく、アンデレともう1人の弟子が生涯どこにとどまったか、ひいてはヨハネ福音書を生んだヨハネ共同体がどこにとどまったか、ということを伝えていることではないかと思えるのです。
上記のように考えることが、「何を求めているのか」という言葉で始まる、イエス様と2人のやり取りについての記述に即応しているのではないかと考えています。
メシア告白
40 ヨハネから聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。41 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「私たちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。42 そして、シモンをイエスのもとに連れて行った。イエスは彼に目を留めて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。
アンデレは、兄弟シモンのところに行って、「私たちはメシアに出会った」と告げました。これは、アンデレともう1人の弟子の「メシア告白」を、ヨハネ福音書が伝えているということでしょう。
アンデレはシモンをイエス様のもとに連れて行きます。そのようにして、この兄弟とイエス様の出会いの様子が伝えられています。この伝え方は、漁師として働いていた場所からこの兄弟が召されたとする共観福音書(マタイ、マルコ、ルカの各福音書)とは違っていますが、私は両方ともそのままに受け止めればよいと思っています。
ナタナエルに伝えたフィリポ
43 その翌日、イエスはガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「私に従いなさい」と言われた。44 フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。45 フィリポはナタナエルに出会って言った。「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」 46 ナタナエルが、「ナザレから何の良いものが出ようか」と言うと、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。
イエス様は続けて、フィリポに出会います。フィリポは、共観福音書では12弟子の1人として名前が列挙されているだけですが、ヨハネ福音書ではしばしば登場します(①6章5~7節、②12章20~22節、③14章8~9節)。①と③を読みますと、彼はイエス様の弟子でありながら、師に対する理解が欠けていたようです。いわば「落第者」なのです(R・A・カルペッパー著『ヨハネ福音書文学的解剖』170ページ)。
しかしながら、こうした「人間的な弱さ」は、他の弟子たちにもいえることでしょう。人間的に優秀であることが、イエス様の弟子となる条件とはならないのです。イエス様に対する「メシア告白」こそが、弟子の条件でありましょう。
フィリポは、イエス様から「私に従いなさい」と言われた後、ナタナエルに「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った」と話し、「伝える者」となります。それはアンデレと同じです。上記の②を読みますと、フィリポが、イエス様に会いたがっていたギリシア人のことをアンデレに話し、2人でイエス様のところに行ってそのことを話したことが記されています。
アンデレとフィリポは、人々とイエス様の「仲介」をしていた人たちであったようです(6章8~9節のアンデレが少年をイエス様のところに連れて行った記事も参照)。このこともまた、「メシア告白」の一つとして、ヨハネ福音書は伝えているのではないかと思います。
イエス様の「来なさい。そうすれば見るだろう」(39節)という言葉を人々に伝え(46節「来て、見なさい」)、イエス様のところにお連れすることは、いつの時代においても「メシア告白」が基になってのことでありましょう。
ナタナエルのメシア告白
47 イエスは、ナタナエルがご自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」 48 ナタナエルが、「どうして私を知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「私は、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。49 ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
21章2節によりますと、ナタナエルはガリラヤのカナ出身です。次回お伝えする、2章1節以下が伝えている土地の出身者です。共観福音書が伝えている12弟子のうち、バルトロマイの名がヨハネ福音書にないことから、ナタナエルはバルトロマイだとする説もありますし、それを否定している説もあります。
ナタナエルはフィリポに連れられてイエス様のところに行きますが、イエス様はナタナエルがいちじくの木の下にいたことを既に知っていました。ナタナエルは、イエス様が自分のいた場所を言い当てたことで、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と言います。これはナタナエルのメシア告白です。
「ヤコブの夢」を模倣した言葉
50 イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。それよりも、もっと大きなことをあなたは見るであろう。」 51 さらに言われた。「よくよく言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
イエス様はさらに、「もっと大きなことをあなたは見るであろう」「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と言われました。これは、旧約聖書の創世記28章にある「ヤコブの夢」を模倣した言葉ですので、その箇所を掲載します。
11 ある場所にさしかかったとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。彼はそこにあった石を取って頭の下に置き、その場所に身を横たえて眠り、12 夢を見た。すると、先端が天にまで達する階段が地に据えられていて、神の使いたちが昇り降りしていた。
13 すると、主がそばに立って言われた。「私は主、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神である。今あなたが身を横たえているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。14 あなたの子孫は地の塵(ちり)のようになって、西へ東へ、北へ南へと広がってゆく。そして地上のすべての氏族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。15 私はあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにしてもあなたを守り、この土地に連れ戻す。私はあなたに約束したことを果たすまで、決してあなたを見捨てない。」
この夢のお話は、神様が旅をしているヤコブと共にいてくださるということを強く強調したものです。イエス様がナタナエルに語った言葉も、イエス様が地上に来られて、人々と神様の間に立ってくださったことを介して、神様が私たちと共にいてくださることを意味しているのです。(続く)
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