約1年間にわたって、「ルカ福音書を読む」というコラムを連載してきましたが、今回から「ヨハネ福音書を読む」の連載を開始します。これまでと同じく、毎週水曜日の掲載で、期間も約1年間を予定しています。引用する聖書については、今回からは基本的に聖書協会共同訳を使用させていただきます。
ヨハネ福音書の執筆目的
「ルカ福音書を読む」においては、ルカ福音書が「やり直せます」というテーマの下で書かれていることを随所でお伝えしてきました。これは私の持論ではありますが、連載を通じてそれが確かなことであると理解いただけたと思います。しかし、ルカ福音書における一つ一つの記述は、このテーマについて明記しているわけではなく、ほんのりとしたものであったかもしれません。
これに対し、ヨハネ福音書は、テーマというよりも、さらに踏み込んだ「執筆目的」を明確に持っています。なぜなら、この福音書自体がそのことを明記しているからです。20章31節に次のようにあります(丸囲みの数字と下線は筆者による)。
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、①イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、②信じて、イエスの名によって命を得るためである。
この2つが、ヨハネ福音書の執筆目的です。①については、この福音書の登場人物たちが、どのようにしてイエス様をメシアと信じていくかを読むことによって、読者もまた信じる者へと導かれます。
②は「命を得る」ことです。「命」と訳されるギリシャ語には、「プシューケー」と「ゾーエー」の2つがあります。プシューケーは、人間が本来持っている命・魂を意味しており、いずれ終わりを迎えるものです。それに対してゾーエーは、新しく得る命であり、終わりはありません。ここでの「命を得る」の「命」は、ゾーエーが使われています。
新約聖書における「永遠の命」という言葉には、ゾーエーが使われています。ヨハネ福音書で伝えられている「命」は、ゾーエーが圧倒的に多いです。この言葉の理解を深めていくことが、この福音書を読む鍵になっていきます。
ヨハネ福音書は、①「イエスは神の子メシアであると信じるため」、②「信じて、イエスの名によって命を得るため」という2つの執筆目的を持って、21の章でそれぞれのお話が伝えられています。本コラムにおいては、この点に着目しながら執筆を進めていきます。
さて、第1回となる今回は、1章1~18節を読みます。ヨハネ福音書のプロローグ(序言)とされている箇所です。
福音書記者ヨハネの神学的教説と洗礼者ヨハネの登場
1 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。2 この言は、初めに神と共にあった。3-4 万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。言葉の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。5 光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。
6 一人の人が現れた。神から遣わされた者で、名をヨハネと言った。7 この人は証しのために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じる者となるためである。8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
ヨハネ福音書の特徴の一つは、登場人物たちが、それぞれに豊かな動きを見せていることです。その伝え方は、4つの福音書の中で最も秀でていると私は考えています。そして、登場人物たちを通して、どのようにイエス様をメシアとして示していくのかがポイントです。
ヨハネ福音書の最初の登場人物は、洗礼者ヨハネです。ちなみに、マルコ福音書でも洗礼者ヨハネが最初に登場します。ヨハネ福音書は、登場する人たちの言動とともに、その前後に福音書記者ヨハネ自身の神学も伝えられていることが特徴です。
例えば、3章1~15節のイエス様とニコデモの対話の後、16節からは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」というくだりで始まる、神学的教説が展開されています。
プロローグに当たる1章1~18節は、福音書記者ヨハネの神学的教説と、洗礼者ヨハネの言動が織り交ぜられた構成になっていると捉えると、分かりやすく読めると思います。
福音書記者ヨハネの神学的教説といっても、その背景には、初期のキリスト教会で歌われていた「キリスト賛歌」があり、それが基になっているともいわれています。キリスト賛歌の引用は、フィリピ書2章6~11節や、コロサイ書1章15~20節にも見られます。
一方、両者がキリスト賛歌をそのまま引用しているといわれているのに対し、ヨハネ福音書のプロローグは、福音書記者ヨハネによる神学的教説としての要素が強いといわれています(伊吹雄著『ヨハネ福音書注解Ⅰ』8ページ)。
1~5節は、神学的教説として、イエス・キリストは神であり、創造者であり、命(ゾーエー)であり、光であることを伝えています。そして6~8節で、その光を証しする者としての洗礼者ヨハネが登場しています。
前述したように、ヨハネ福音書は、「イエスは神の子メシアであると信じるため」という1つ目の執筆目的のために、登場人物たちが、どのようにしてイエスをメシアと信じていくかを示し、それを読んでもらうことで、読者もまた信じる者へ導かれるようにしています。洗礼者ヨハネも、その目的のために伝えられています。
1章29~34節には、イエス様が神の小羊であり、神の子であることが、洗礼者ヨハネの視点で記されています。そうすることによって、ヨハネ福音書は、読者を「イエスは神の子メシアであると信ずる」ことへ導いているのです。
受肉
9 まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである。10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。11 言は自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった。12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。13 この人々は、血によらず、肉の欲によらず、人の欲にもよらず、神によって生まれたのである。14 言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
「受肉」という言葉は、神が人となったことを意味する言葉であり、この出来事のみを指しているといって過言ではないでしょう。9~14節では、受肉についての神学的教説が伝えられています。
前掲書によるならば、「イエスが来た(筆者注・受肉のこと)のは、人々に命を与えるためなのだが、それは、己の命を与えることにおいてのみ成立する」(16ページ)のです。この捉え方は、10章10~11節の「私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである。私は良い羊飼いである」を基にしていると考えられます。
この場合の「羊が命を得るため」の「命」は、ゾーエーです。つまり、終わりのない「命」です。イエス様は、それを与えてくださるというのです。しかし、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」の「命」はプシューケーです。つまり、人間としての命です。
イエス様が人となって、人間としての命(プシューケー)を捨てる(=死ぬ)ことによって、私たちに終わりのない新しい命(ゾーエー)を与えてくださったということです。それが「受肉」の出来事です。
私にまさった方
15 ヨハネは、この方について証しをし、大声で言った。「『私の後から来られる方は、私にまさっている。私よりも先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことである。」
ここで再び、洗礼者ヨハネが登場します。洗礼者ヨハネは、あくまでもイエス様を指し示す存在として伝えられています。洗礼者ヨハネについてのこの伝え方は、全福音書に共通していると思います。
ヨハネ共同体
16 私たちは皆、この方の満ち溢(あふ)れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。17 律法はモーセを通して与えられ、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。18 いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
ヨハネ福音書は、福音書記者ヨハネが一人で書いたのではなく、ヨハネ共同体というグループの中で書かれたとされています。16節の「私たち」という書かれ方は、そのことを示しているのでしょう。
この共同体の中で、イエス様がどのように伝えられていたのかを、これからじっくりと読んでいきたいと思います。ご意見は、[email protected] でお受けしています。忌憚(きたん)なくお寄せください。(続く)
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