著者の小友聡先生は、日本基督教団中村町教会の牧師であり、東京神学大学の教授であられます。私は先生とは面識がありませんが、私の知人で面識を持つ牧師が、「小友先生は、牧師でありつつ神学大学の教授をしているところが立派です」と言われていました。旧約聖書がご専門で、特に「コヘレトの言葉」と「雅歌」に対する造詣が深くあられ、その関連の書籍を多数執筆しておられます。
また、NHKのEテレ「こころの時代」で、シリーズ「それでも生きるー旧約聖書『コヘレトの言葉』」を担当されておられました。本書のあとがきによりますと、それを視聴していた、ちくま新書の編集者が、聖書の言葉の力を再認識して執筆を依頼し、先生が快く受諾されて上梓(じょうし)されたのが、この書であるようです。
本書は、タイトルとなっている「絶望に寄りそう聖書の言葉」を、1)孤独に立ちすくんだとき、2)働くことに疲れたら、3)妬(ねた)みの気持ちに向き合うために、4)家族の大切さを忘れかけたとき、5)死を受け入れるために――という5つのテーマに分けています。そして、それぞれで旧新約聖書の言葉を6つずつ取り上げ、テーマに沿った展開をしています。
引用している聖書の巻は、創世記(3回)、出エジプト記(2回)、申命記、ルツ記、サムエル記上・下、列王記上、ヨブ記(2回)、詩編(2回)、箴言、コヘレトの言葉(3回)、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ホセア書、ヨナ書、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書(2回)、ヨハネによる福音書、ローマの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙です。このように、旧約聖書からの引用の方が多くなっています。
第1のテーマ「孤独に立ちすくんだとき」の最初には、「イスラエルの祖ヤコブ」と題する項目が置かれています。ここでは、創世記28章15節のヤコブに対する神の言葉が引用されていますが、ヤコブがどういう人物なのか、またその後のイスラエルの歴史なども記されています。
こうした引用箇所に関する広がりのある説明は、本書全体に貫かれており、引用されている聖句は短くも、旧新約聖書の緒論書としても活用できる一冊です。そして、ヤコブに対する神の「私はあなたを見捨てない」という言葉ゆえに、ヤコブは孤独と絶望の中でも諦めずに、前に進むことができたとしています。
本書ではまた、小友先生ご自身の聖書解釈が随所で述べられています。例えば、第3のテーマ「妬みの気持ちに向き合うために」の3番目の項目「人生の短さを見つめたコヘレト」においては、人生がつかの間であるというコヘレトのメッセージを伝えていますが、それをマタイによる福音書6章26~30節の「空の鳥を見なさい」以下のくだりと対比させています。
筆者は以前、「コヘレトと新約聖書」というコラムで、「コヘレトと『空の鳥を見なさい』以下のくだりは、内容・構成に大きな類似が見られる」という趣旨のことをお伝えしました。しかし小友先生は、「この箇所はコヘレトの言葉が念頭に置かれていると言えます」と、ご自身の見解としてではあっても、言い切っておられます。聖書、特にコヘレトの言葉に通じている小友先生だからこそ、そうでき得るのではないかと思わされました。
旧約聖書の中では小さな書である「ヨナ書」や「ルツ記」から引用があるところにも、目を向けさせられました。
第3のテーマの5番目の項目「イスラエル民族の象徴ヨナ」では、ヨナ書4章10節を引用し、「旧約聖書の預言書の中にはひとつだけ突出して小さな物語があります。ヨナ書です。これは預言書というより、いわば『古代イスラエルの短編小説』のようなものです」と紹介しています。その上で、次のような見解を示しています。
「旧約聖書では申命記主義的神学が中心なので、神と契約を結んだイスラエルの民だけが神の祝福を受けることになっています。いわゆる異邦人、外国人は祝福の対象から外れるはずなのですが、ヨナ書ではこれが否定されているのです」
「申命記主義的神学」とは、筆者が理解するところでは、「イスラエルは律法に聞き従うなら祝福を受け、聞き従わないなら呪われる」ということです。ヨナ書は、その対象から外されているニネベという外国に関する書であり、「旧約聖書は中心が一つではなく、相反する二つのものが中心となる楕円形的な思想構造となっていると言えます」として、この項目が結ばれています。
ルツ記は、同書1章18節の引用によって、第4のテーマ「家族の大切さを忘れかけたとき」の中に、「ナオミの悲嘆に寄りそう外国人ルツ」と題されて置かれています。
小友先生は、ルツ記を「心温まる美しい物語」だとし、旧約聖書におけるルツ記の位置や、イエスの系図、すなわちイスラエルの歴史におけるルツの位置なども示されています。また、「レビラート婚(義兄弟結婚)」「買い戻し(ゴーエール)」といった、ルツ記に独特な用語も説明されています。そして、「すべてを奪われて途方に暮れ、不条理を嘆き神を呪ったナオミという女性が、しかし外国人のルツによって新しい家族を与えられ、人生が贖(あがな)われる」ことを伝えている巻であるとしています。この項目においても、ヨナ書同様に、旧約聖書が外国人に対する温かい視線を持っていることが示されています。
小友先生の専門が旧約聖書であるためか、本書は全体の8割近くが旧約聖書からの引用になっています。しかし、新約聖書からの引用の項目にも、興味深い論述があります。それは、第2のテーマ「働くことに疲れたら」の5番目の項目「使徒パウロの黙示思想」です。
小友先生は、ローマの信徒への手紙8章18~25節を引用し、パウロが旧約聖書の最終段階で現れた「黙示思想」を用いて弁術しているとします。そして、パウロは、黙示思想によって現在の苦しみを説明しているが、それは希望の前触れであり、「終わりの時」に向けて希望を抱くことで、人は現在の苦しみを引き受けて前に進むことができると語っている、としています。
そういった聖書の言葉ゆえに、疲れていても希望を捨てないで人は前に進めるということを伝えています。その他、パウロ書簡では、フィリピの信徒への手紙が取り上げられています。
タイトルが「絶望に寄りそう聖書の言葉」という本書ですが、人間にとって絶望の最たるものは「死」でありましょう。本書の最後となる第5のテーマは、「死を受け入れるために」です。テーマにもかかわらず、小友先生はそれぞれの項目で「今を精いっぱい生きよ」というメッセージを伝えているように思えます。
ただ、このテーマの最後の項目である「イエスのゲツセマネの祈り」においては、イエスが十字架で処刑される前に3人の弟子を連れてゲツセマネという所で祈ったシーンが描かれているマルコによる福音書14章32~38節から、死と向き合うことについて述べておられます。
3人の弟子はそこで眠ってしまいますが、小友先生は、それでも彼らが傍らにいてくれたことは、イエスにとって慰めであったのではないかとしています。その上で、愛する人が死を受け入れるとき、「たとえ言葉は届かなくても、手を握るという目に見えない言葉で寄りそうことができるのだと思います。目に見えない言葉は心に届くのです」との記述で、本文を結ばれています。
本書は、キリスト教徒ではない人、一般信徒、説教者である牧師のいずれが読んでも、得るところがあると思います。新書版であるため低価格ですが内容は重厚ですので、広くお薦めできる一冊です。
■ 小友聡著『絶望に寄りそう聖書の言葉』(筑摩書房 / ちくま新書、2022年9月)
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