第4回では3章1~14節から、洗礼者ヨハネの宣教についてお伝えし、第7回では同21~22節から、そのヨハネからイエス様が洗礼を受けたことをお伝えしました。
しかし、洗礼者ヨハネはその後、領主ヘロデによって牢(ろう)に閉じ込められてしまいます(3章19~20節、9章7~9節参照)。今回は、ヨハネが牢の中から(マタイ11章2節参照)、イエス様のもとに弟子を送ったことと、ヨハネの弟子たちが帰った後のイエス様の語りが記されている7章18~31節を、これまで同様に「やり直せます」というテーマを切り口に読んでみたいと思います。
洗礼者ヨハネの使い
18 ヨハネの弟子たちが、これらすべてのことについてヨハネに知らせた。そこで、ヨハネは弟子の中から二人を呼んで、19 主のもとに送り、こう言わせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」20 二人はイエスのもとに来て言った。「わたしたちは洗礼者ヨハネからの使いの者ですが、『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』とお尋ねするようにとのことです。」21 そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。22 それで、二人にこうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。23 わたしにつまずかない人は幸いである。」
イエス様がガリラヤで教え、また人々を癒やしていたことを、洗礼者ヨハネの弟子たちも見ていたようです。弟子たちはそのことをヨハネに伝えました。それを聞いたヨハネは、イエス様のところに2人の弟子を送り、「来るべき方(メシア)は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と問うように指示を出したのです。
興味深いことは、この問いが19節と20節において二度、しかも全く同じ形で繰り返されていることです。その理由を考えてみますと、この箇所が聖書でよく見られる「交差配列法」(キアスムス)という構造になっているであろうことと関連があるように思えます。18~19節と22~23節(青色のテキスト)が、20~21節(赤色のテキスト)を囲い込んでいるのです。そうであれば、18~19節の問いに対する答えは22~23節であり、20節の問いに対する答えは21節であるということになり、「ABB´A´」というキアスムス構造が確認できます。
そして、18~19節と22~23節は、今回の記事の並行箇所であるマタイ福音書11章2節~6節(Q資料素材記事といわれています)とほとんど同じになります。しかし20~21節は、マタイ福音書にはない、ルカ福音書に固有な記事なのです。これらのことを、以下のようにまとめることができます。
- A(18~19節)囲い込んでいる外側:一度目の問いが含まれる、マタイ福音書の並行記事とほぼ同じ(Q資料素材記事)
- B・B´(20~21節)囲い込まれている内側:二度目の問いとそれに対する答え、ルカ福音書に固有の記事
- A´(22~23節)囲い込んでいる外側:一度目の問いに対する答えが含まれる、マタイ福音書の並行記事とほぼ同じ(Q資料素材記事)
21節と22節(もしくは23節まで)がそれぞれ、繰り返されている二度の問いに対する答えなのですが、2つの答えには差異があります。この差異について加藤常昭牧師は、「21節の出来事を語る動詞の主語は主イエスであるが、ここ(22節)では主語は目の見えない人、足の不自由な人、重い皮膚病を患っている人、耳の聞こえない人、死者でさえあり、また貧しい人であった」と述べておられます(「説教黙想アレテイア」75号・83ページ参照)。
21節は「そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた」と主語がイエス様であり、イエス様がなさっていたことが伝えられています。一方、22節は癒やされた人たちが主語になっていて、差異があるのです。この差異は、繰り返されている二度の問いが、それぞれ別の答えに向かっていることを示していると私は考えています。
洗礼者ヨハネはその後、領主ヘロデによって処刑されてしまいます(9章7~9節参照)。
しかしヨハネの弟子たちは、その後も「洗礼者ヨハネ教団」として存続していきます。イエス様のもとに送られた2人の弟子たちも、その教団に残ったのでしょう。20~21節(赤色のテキスト)は、2人がイエス様に会いに行ったときに見たことを、洗礼者ヨハネ教団でも語り継いだものであり、そこからの伝承ではないかと私は考えています。18~19節と22~23節(青色のテキスト、Q資料素材記事)は、生前の洗礼者ヨハネと弟子たちとの交信でしょう。
いずれにしましても、ルカ福音書は「イエス様が悪霊に取りつかれた人たちから悪霊を追い出していたことなどをより強く伝えている」と言い得ると思います。Q資料素材記事ではない独自の伝承を用いることによって、たくさんの人たちが癒やされ、再出発している様子を伝えています。それはやはり、ルカ福音書が「やり直せます」ということをテーマとしているからだと思います。
洗礼者ヨハネについて語るイエス様
24 ヨハネの使いが去ってから、イエスは群衆に向かってヨハネについて話し始められた。「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦(あし)か。25 では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。華やかな衣を着て、ぜいたくに暮らす人なら宮殿にいる。26 では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、言っておく。預言者以上の者である。27 『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。28a 言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。
23節までは、「洗礼者ヨハネがイエス様について尋ねたこと」という、【洗礼者ヨハネ→イエス様】という構図で表され、24節~28節aは、「イエス様が洗礼者ヨハネについて語ったこと」という、【イエス様→洗礼者ヨハネ】という構図で表される内容となっています。
イエス様は、荒れ野で宣教活動をしていた洗礼者ヨハネについて、群衆に3度問うかたちで、ヨハネの宣教の姿を示しておられます。1つ目の問いは、ヨハネは「風にそよぐ葦か」というものでした。これは、ヨハネは「風に揺れる葦のように、信念を持たない人だったのか」という問いです。ヨハネはそういう人ではありませんでした。たとえ牢に入れられようとも、信念を持って語る人でした。
2つ目の問いは、ヨハネは「しなやかな服を着た人か」というものでした。ヨハネは、しなやかな高級な服を着ていたのでしょうか。いいえ、彼はらくだの毛衣を着て、腰に皮の帯を締めていたのです。彼はしなやかな服を着た人ではありませんでした。
3つ目の問いは、ヨハネは「預言者か」というものでした。イエス様は自らそれを肯定して、さらにヨハネは「預言者以上の者」だったとお語りになられました。そして、マラキ書3章1節の内容である「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう」を引用して、ヨハネこそがこの預言の成就者であり、最も偉大な者なのだとされています。
神の国でもっとも小さい者
28b 「しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」
しかしイエス様はそれでもなお、「神の国で最も小さな者でも、彼(ヨハネ)よりは偉大である」と言われます。神の国とは何でしょうか。どこにあるのでしょうか。「実に、神の国はあなたがたの間にある」(ルカ17章21節参照)のです。それは人と人の間にあるのです。そこで最も小さい者とは誰でしょうか。それは神様に立ち返り、悔い改めて、人間同士の間でも自らを低くしている人のことではないでしょうか。
ルカ福音書が伝える「悔い改めて自らを低くする者」
29 民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた。30 しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ。
29~30節は、マタイ福音書にはない(Q資料素材記事ではない)、ルカ福音書に独自なものです。ここを、「語り手(ルカ)の注釈と見なすべき」としている注解者もいます(嶺重淑〔みねしげ・きよし〕著『NTJ新約聖書注解 ルカ福音書1章~9章50節』325ページ)。私は、ルカ福音書に独自に記されている「徴税人さえもその洗礼を受けた」という箇所が、「悔い改めて自らを低くする者」の姿を示していると考えています。ルカはこの注釈において、洗礼を受ける徴税人たちこそが「神の国で最も小さな者」を具現していると伝えているのです。
ヨハネの洗礼は悔い改めの洗礼です。徴税人が洗礼を受けたのは、神様に立ち返り、悔い改めて、自らを低くしたからです。ルカ福音書は、彼らがそうすることによって再出発することを、この箇所の中心テーマとして伝えているのではないかと思います。そしてそれは、ルカ福音書全体のテーマだとお伝えしている「やり直せます」ということなのです。
一方、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、悔い改めることをしませんでした。それは神様の御心を拒むことでした。ルカ福音書は、悔い改めた徴税人たちの対極にいる人たちとして、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちのことを伝えているのです。
今回も、お示しした箇所を「やり直せます」という切り口で読んでみました。私たちも、ここで示されている徴税人たちのように、神様に立ち返って自らを低くするならば、常にやり直すことができるということを、今回のお話から読み取ることができるのです。(続く)
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