今回は7章36~50節を読みます。
ファリサイ派の人シモン
36 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。
イエス様がファリサイ派の人シモン(「シモン」という名前は40節以降に出てきます)の家に招かれました。今回はまず、ファリサイ派といわれる人たちが、ルカ福音書でどのような位置付けにあるかについてお伝えします。
第10回で、イエス様の説教は「幸い章句」だけでなく、「富んでいる人たちは不幸だ」「今満腹している人たちは不幸だ」「今笑っている人たちは不幸だ」「すべての人にほめられるときは不幸だ」といった「不幸章句」もあることをお伝えしました。ルカ福音書はこのように、幸い章句に示される神様の「愛」と、不幸章句に示される神様の「義」が対になっているのが特徴です。
また第1回で、マリアの賛歌の中の「権力ある者をその座から引き降ろす」「身分の低い者を高く上げる」「飢えた人を良い物で満たす」「富める者を空腹のまま追い返す」は、この福音書の主題のモチーフであるとお伝えしました。そして、このモチーフの中心の2つである「身分の低い者を高く上げる」「飢えた人を良い物で満たす」が特に大切にされており、私はここに「やり直せます」というルカ福音書のテーマを見いだしています。
しかし、モチーフのうち「権力ある者をその座から引き降ろす」「富める者を空腹のまま追い返す」という部分も、前掲の不幸章句と同じように、ルカ福音書では大切な要素です。それを具現している登場人物が、ファリサイ派の人たちではないかと私は考えています。「権力ある者」「富める者」とは、現状に満足して慢心している人たちのことです。ルカ福音書で描かれるファリサイ派の人たちは、自分は正しいと慢心している人たちであり、前回お伝えした、悔い改めた徴税人とは対極にいる人たちです。そんなファリサイ派の人であるシモンの家の食事の席に、イエス様が招かれたのです。
罪深い女の行為
イエス様の足に香油を塗る女性のお話は、4つの福音書すべてにありますが、ルカ福音書のお話だけ、舞台がガリラヤです。そんなこともあり、37節以降に出てくるお話は、他の3つの福音書にあるそれぞれのお話とは切り離して読んだ方がよいと思います。ここには、「罪深い女」が登場します。
37 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏(せっこう)の壺(つぼ)を持って来て、38 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻(せっぷん)して香油を塗った。39 イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。40 そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。
「罪深い女」は娼婦(しょうふ)であったともいわれています。そうかもしれませんが、確かなことは分かりません。また、この女性はマグダラのマリアであるとされることもありますが、それも根拠はありません。名前も触れられぬこの女性が、ファリサイ派の人シモンがイエス様を招いたその宴席に、香油の入った石膏の壷を持ってやって来たのです。
当時の食事は、横になって足を伸ばして、食卓のものを取って食べていたようです。今回掲載した3枚の絵は、いずれもこのお話を題材にしたものですが、上掲のプッサンの作品が実際の様子に一番近いのではないかと思われます。この絵によれば、後ろからイエス様の足元に近寄るのは容易であったでしょう。この女性はイエス様の足を涙でぬらし、それを自分の髪の毛でぬぐいました。そして、イエス様の足に接吻して、持ってきた香油をその足に塗ったのです。
この時の女性の涙は、自分の罪を悔悛(かいしゅん)するものであったでしょうし、足への接吻と塗油は、イエス様に対するこの女性の謙遜を表していると思われます。女性はイエス様が罪を赦(ゆる)してくださることを知っていて(5章20節参照)、自分が犯した深い罪を赦していただくためにこの行為をしたのだと思います。
しかし、それを見ていたファリサイ派の人シモンは、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と言ったのです。けれども、イエス様は預言者として、逆にシモンの心の内を読み取りました。そこには、何かが欠けていたのです。何が欠けていたのでしょうか。
多く借りた者と少なく借りた者の例え
41 イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。42 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」 43 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。
イエス様は例えを話されました。500デナリオンは、今日の日本のお金でいうと500万円くらいでしょうか。50デナリオンは50万円くらいでしょう。それぞれを借りた人たちがどちらも返せなかったので、貸した人は両者の借金を帳消しにしたのです。イエス様はどちらの人が貸した人を愛するだろうかと、ファリサイ派の人シモンに問います。シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答え、イエス様は「そのとおりだ」と言われました。
ここでイエス様は、罪深い女を500デナリオン借りて返せなかった人に、ファリサイ派の人シモンを50デナリオン借りて返せなかった人に例えています。私の推測ですが、シモンは500デナリオン借りた人が罪深い女であることはおぼろげに分かったと思いますが、50デナリオン借りた人が自分であることは分からなかったのだと思います。
赦されたことと愛すること
続くイエス様の言葉で、この例え話が、罪深い女とファリサイ派の人シモンの両者に対してのものであったことが明らかにされます。
44 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。45 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。46 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
イエス様は、ファリサイ派の人シモンの家に来て起こったことを順次語られました。第一に、シモンは足を洗う水も出さなかったが、女性は涙と髪の毛で足をぬぐってくれた。第二に、シモンは接吻の挨拶もしなかったが、女性は足に接吻をしてやまなかった。第三に、シモンはイエス様の頭にオリーブ油を塗らなかったが、女性は足に香油を塗ってくれた、ということでした。
そして、両者の行為の背後には罪の赦しがあり、例え話でいうならば、500デナリオンを借りていた人が罪深い女であり、50デナリオンを借りていた人がファリサイ派の人シモンであったことが明らかにされたのです。そのようにしてイエス様はシモンに対し、おぼろげであった例えの意味をはっきりと示されたのです。
それに対するシモンの答えは記されていません。しかしそこは肝要ではなく、ファリサイ派の人が自分の罪に気付いていないことや、自分も赦されている対象であることを分かっていないことなどが、このお話が伝えたいことなのだろうと思います。
ファリサイ派の人は現状の自分に満足して慢心してしまっており、ルカ福音書はそういう人々を「権力ある者」「富める者」だとし、神様は「権力ある者をその座から引き降ろす」「富める者を空腹のまま追い返す」のだと伝えているのだと思います。シモンがイエス様にどう答えたのかは記されていませんが、この後イエス様も彼に対して何の行為も返答もしていません。それは、権力ある者を「引き降ろす」ことであり、富める者を「追い返す」ことなのだと思います。
「あなたの罪は赦された」
48 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。49 同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。50 イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。
ファリサイ派の人シモンには何の返答もなされませんでしたが、罪深い女に対しては「あなたの罪は赦された」と宣告しました。そして、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われるのです。「身分の低い者を高く上げる」ことを伝えるルカ福音書は、悔悛し謙遜な態度でイエス様に接した罪深い女に対して、「やり直せます」と宣言しているということでもありましょう。
私たちは、このところを繰り返し読むことが大切だと思います。「あなたの罪は赦された」とのイエス様の宣告を、私たちも喜びを持って受け取り続けることが大切なのです。
ファリサイ派の人に見る私たちの姿
一方、自分に慢心していたファリサイ派の人については、何の応答も伝えられていません。実はこの姿もまた私たちの姿であります。私たちは、罪深い女でもあり、ファリサイ派の人シモンでもあるのです。しかし、神様は両方の人たちを招いてくださっています。それは、両方の側面を持っている私たちを招いてくださっていることでもあります。(続く)
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